内的自己対話-川の畔のささめごと

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戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(八)― 現象学からの逸脱としての〈主体的なもの〉

2017-03-06 15:15:33 | 哲学

 一昨日の記事で引用した時枝最晩年の講演記録の中で、時枝は、「客体的なものと、それに働きかける人間の主体的なもの、その合体によって、人間の思想の表現というものは成り立つ。これが、日本の伝統的な、文法の根本にある考え方じゃないか」と述べている。そして、その直後に、フッサールの現象学がなぜそのような日本語の伝統的文法の理解の助けになったかを説明している。その箇所も一昨日すでに引用した。時枝による山内得立『現象学叙説』の叙述のその要約は、一見すると、同書に忠実なものである。
 ところが、主体概念に関して、両者には埋めがたい溝がある。
 まず、「主體」という言葉は、山内得立の本にはたった二回しか使用されておらず、しかも、時枝が「主体」に与えている意味とはまったく反対の意味で使われているのである。

ノエマ的核とは種々なるノエマ的意味の、それを中心として群屬するところの或るものである。いはゞノエマ的核は種々なる意味を擔ふところの同一者であり、樣々なる賓辭の附け加はるべき主體である。(山内得立『現象学叙説』、岩波書店、昭和4年、353頁)

 つまり、「主體」とはノエマ的核であり、様々なノエマ的意味の支えとなるものであり、意識作用としてのノエシス側に属するものではない。時枝にとっては、まったく反対に、主体とは、ノエシスという志向作用の担い手なのである。
 そして、山内の記述と時枝の理解とのもう一つの重要な「ずれ」は、山内は、いわゆるフッサール現象学の一般的解釈に忠実に、ノエシス・ノエマとは意識の構造契機であるとしているのに対して、時枝においては、ノエシスとノエマとの関係は主体と客体との関係であり、主体は意識の構造契機に還元されるものではない。時枝における主体は、いわば、意識の構造をはみ出してしまっているのである。












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