内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

映画『聲の形』と小説『映画 聲の形』との間に見られる二つの相違点について

2020-09-13 13:41:05 | 読游摘録

 映画『聲の形』と小説『映画 聲の形』との間にも違いがいくつか見られるが、その中の二点について書き留めておきたい。
 一点目は、映画の方にのみ見られる工夫である。場面は、小学校六年の時、石田将也の学校に転向して来た硝子が将也から執拗にいじめられ始めたときのことである。原作漫画では、教室の黒板に将也が大きく「合唱コンおめでとう! 西宮サンのおかげで入賞逃したよ! オンチはうたうな! みんなにあやまってください!」と書き、それを見た硝子がひどくショックを受ける。そこに川井みきが駆け寄ってきて、「ヒドいよね、これ。ホント…」と同情する。将也は、自分で書いておきながら、誰か他人がやった落書きであるかのように黒板消しでその落書きを消すが、島田も一緒に消している。それに対して、硝子は、いつも持ち歩いているノートを開いて、「みんなありがとう」と書かれたページを開く。
 ところが、映画では、「西宮さん おめでとう !! さはらさん どっかにいっちゃたよ☆ こんど西宮語おしえてね !! オェーオェー」と板書されている。こうすることで、佐原みよこがなぜ学校に来なくなったか、その理由が示唆されているのだ。原作漫画では、佐原みよこが、硝子と仲良くなろうと手話を覚えることを申し出たことがきかっけで自分もいじめの対象になり、不登校になってしまったことがはっきりと描かれているが、映画ではそのことをこの板書だけで示唆しようとしたのだ。それに、この落書きを消すのは将也一人であり、硝子は、きれいになった黒板に「ありがとう」と書く。そうすることで、より二人の関係に場面の焦点が絞られている。
 もう一点は、小説の方にのみ示された硝子のかなり長い独白である。その独白は、高三の夏休み、多くの時間を一緒に過ごした将也に硝子が自分の母親の誕生日を自宅で一緒に祝うことを提案し、戦々恐々としながらケーキを準備していた将也だが、誕生パーティーは無事済み、結弦が翌週の花火大会に一緒に行こうと将也を誘い、硝子の母親もそれに同意し、自分も行くと答えた場面の直後に置かれている。
 その中で硝子は、小学生のときからの自分の過去を振り返り、自分が他者に対して取るようになった態度について説明している。そして、家族の困難や将也が失ったものはみな自分のせいだと自分を責める。その独白は「あとは私さえ、いなくなれば――」と結ばれている。よく言えば、懇切丁寧に硝子が自殺を決意するに至る理由が縷縷と述べられているのである。これは、その理由がよくからないであろうと思われたラノベの読者への配慮であろうか。
 この独白は、原作漫画にもなく、映画にもまったく出て来ない。映画では、花火大会以前に二人で一緒に出掛けた時に、硝子が将也に手話で「わたしと一緒にいたら不幸になる」と言っている場面があるだけである。そして、花火大会の途中で、勉強があるからと帰るという硝子に将也が手話で「またな」と言うと、それに対して硝子が「ありがとう」と手話で返し、人混みの中に消えていくという、とても印象的なシーンがあるだけである。その「ありがとう」が何を意味するのかの説明はない。小説には、このやりとりのあとに括弧して、「(いつもは『またね』なのに、なんで今日は『ありがとう』……?)」と将也の内語が付されているが、原作漫画にはそれもない。
 この二点目に関しても、原作に忠実な映画の脚本と場面構成を私は高く評価している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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