内的自己対話-川の畔のささめごと

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地獄と黄泉の国・根の国とが決定的に違う点はどこにあるか ― 西郷信綱『古代人と死』より

2024-07-01 00:00:00 | 思想史

 仏教の説く地獄が広く日本人に受け入れられていくのは、浦島伝説に見て取ることができる神話世界の終焉という過渡期を経て、奈良時代、八世紀に入ってからのことである。奈良時代および平安初期の説話を集めた『日本霊異記』には地獄にまつわる多数の説話が収められているが、地獄のことを黄泉の国と称している説話があり、その意味でこの語は神話世界終焉後も死者の国を示す言葉として残る。根の国という語も中世の物語までちらほら見える。
 「これは日本人の仏教への改宗過程において、古来のフォークロアや神話、それらと仏教の間で矛盾を孕む相互作用が絶え間なく経験されてきたことを暗示する。宗教的発展では、たんなる置き換えは存しない。」(西郷信綱「地下世界訪問譚」『古代人と死』所収。以下「」内はすべて同論文からの引用)
 とはいえ、地獄と黄泉の国・根の国とには決定的相違点がある。「いちばん顕著なのは、黄泉や根の国には応報、あの世で人を罰するということがなかったのにたいして、地獄では現世で罪を犯したものが審判に付された点にある。」
 王身といえども、この責め苦を逃れることができなかった。例えば、醍醐天皇は菅原道真を流罪に処した罪のため鉄窟に堕ち、その臣三人とともに受苦し悲泣嗚咽する目にあったという。古代神話におけるスサノヲも、数々の罪を犯したかどで高天原から下界の根の国に追放されたが、彼にとって根の国は「妣の国」であり、そこで罰せられることはなかった。
 「現世の、つまり娑婆でのおこないが来世で審判されるとする仏教が普及するにつれ、一人ひとりの伝記が肝腎な問題になってくる。当然、それは死というものが次第に個人化されていった過程、別のいいかたをすれば、死者への恐れがみずからの死の恐れへと感染していく過程と呼応する。」
 こう指摘した後、西郷は『日本霊異記』に特徴的な語り口に注意を促す。
 「死後わが身を焼くなといいおいて魂が冥界に赴き、人の苦患のさまを目にして戻ってくるという語り口が霊異記に多いのに改めて目を留めねばなるまい。そこには、身体と魂との二元論が発生して来つつあるさまがハッキリと見てとれる。」
 西郷は、さらに、死がもたらす魂と身体のこの二元論に拍車をかけたのは火葬の普及であったと考える。平安中期以後の貴族社会には、欣求浄土の強い願望が沸きおこってくる。それにはさまざまな要素が複合していることを認めたうえで、そのうちの有力な一要素として火葬の普及があったと西郷は考えるのである。「死ぬと身は焼かれて忽ち灰と化す。かくて帰るべき身体を無くした魂は、いわばみずからを純化して、遥か十万億土のかなたをひたすら希求するという図がらになる。」
 上掲の文脈と話がいささかずれるが、日本での火葬のはじまりについて一言付け加えておきたい。日本で最初の火葬とされるのは、入唐して玄奘に師事し、薬師寺繍仏開眼供養の講師を勤めたとされる道昭のそれである(七〇〇年)。道昭に深く帰依していた持統天皇は、道昭の例に倣い、自らの火葬を遺言する。天皇の遺体が火葬されたのは持統天皇のそれが史上初めてである(七〇三年)。ただし、持統天皇の崩御は前年十二月であり、火葬が行われたのはその一年後の翌年十二月である。その間、遺体は藤原宮の西殿の庭に作られた殯宮に安置されていた。亡くなってすぐに灰と化したのではない。この点を軽視してはならないと私は考える。
 ここから私見として以下の二点を指摘しておきたい。
 一点は、当時は火葬といっても長時間かかったはずだ、ということである。つまり、「忽ち灰と化」したのではない。何時間も火葬の煙が空に上っていくのを人びとは見上げていたはずである。死は魂と身体との決定的な分離であると認識されていたとしても、他方でその分離は長時間かかる過程として認識されていたのではないだろうか。
 もう一点は、持統天皇の遺骨は夫天武天皇と合葬されているが、天武天皇は土葬であったことである。中国・朝鮮には夫婦合葬の事例は古くから多く、日本でも安閑陵、宣化陵、欽明陵などが知られるが、これらはむしろ例外に属すると主張する研究者もいる。特に、土葬と火葬との合葬は他に例がない。一方で火葬という新しい埋葬方式を自ら受け入れながら、他方で夫天武天皇との合葬を持統天皇が切望したとすれば、それにはそれ相当の理由があったはずである。
 この二点目については明日の記事で補足する。