内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

思考の論理、あるいはその生理と律動 ― テキスト読解の鍵

2014-01-03 23:45:36 | 哲学

 音楽を演奏するとき、リズムやテンポが不適切では、そもそも演奏として成り立たないのが普通であろう。それでも無理に演奏すれば、曲想を壊してしまう。もちろん、敢えて作曲者の指定と違うリズムやテンポを選ぶことによって、その曲に新たな息吹を吹き込むということもありえないことではない。しかし、今日の記事では、この可能性は脇に除けて、音楽演奏でのリズムとテンポについての原則がテキスト読解にも当てはまるかをどうか考えてみたい。
 もし、文学作品、殊に韻律が命である詩歌については、比較的よくこの原則があてはまるとすれば、それだけ詩歌が音楽に近いからだろう。では、散文、それも文学作品ではなく、論文のように、そこでの議論の内容が問題であるような文章にも、同じ原則を当てはめることができるだろうか。一見難しいように思える。そもそも書き手の側にそのような意識がなく、いわば空間的な図形のように構成された文章に対しては、それを読むのに適切なリズムやテンポなどを求めても、それはないものねだりなのかもしれない。しかし、たとえそのような文章であったとしても、読まれるときには時間的に展開されていくのだから、やはりそこには一定のリズムとテンポがなくてはならないのではないだろうか。
 こう言ったほうがいいのかもしれない。テキストには、それを読むにふさわしいリズムとテンポがあり、それにしたがって読むことがそのテキストを理解するための必要条件となる。言い換えれば、テキストは、それに適切なリズムとテンポで読まなければ、よく理解されえない。テキストを理解するということは、そのテキストの思考の律動性にしたがって考えることだと言っていいのかもしれない。


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