内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

茶は花にして、花は言葉、そして言葉は命 ― 岡倉天心への回路を索めて

2014-01-02 23:50:39 | 読游摘録

 岡倉天心の名は、父方の祖父が美術評論家として天心について一書を著した思想家として、年少の頃から親族の会話の中で聞いて以来、心の何処かに響き続けていた。しかし、真剣にその著書を読む機会はこれまでなかった。『茶の本』の仏訳を大学の講義で取り上げようとしたことも数年前にあったが、その時は同書に見られるあまりにも図式的な(と私には思われた)東西二元論に辟易して、以後敬して遠ざけるという態度に終始してきた。
 いつかは一度きちんと読んでおきたいという気持ちはそれでも失われたわけではなく、天心をいわば代理父性として敬慕していた九鬼周造を読むようになってからは、その気持は強まり、明治期のいわゆるお雇い外国人学者たちの日本近代化に果たした役割という問題関心から、天心の師の一人であるフェノロサに興味を持つようになったことも、一層天心への関心を高めた。
 岩波現代文庫のための書き下ろしとして昨年12月に出版されたばかりの若松英輔『岡倉天心『茶の本』を読む』を購入したのも、井筒俊彦の哲学に対する精神的親和性に満たされつつその内奥に参入しようとした批評的試みとして印象づけられた『井筒俊彦 叡智の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011年)の著者による天心論に、天心へ接近する回路の一つが見いだせるのではないかという期待からだった。昨日届いたばかりで、まだあちこち頁をめくったに過ぎず、同書について何か批評めいたことを述べる用意はできていない。ふと目に止まった一節を引いておく。

「茶」は姿を変えて、さまざまなところにその姿を現す。「茶」に変じてこの世に顕われた何ものかは、ときに「花」として語りかける(108頁)。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿