内的自己対話-川の畔のささめごと

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科学思想史家としての志筑忠雄(12)―『鎖国論』とその時代の日本を取り巻く国際情勢

2023-08-23 00:00:00 | 読游摘録

 池内氏は『鎖国論』に対して、志筑は「なぜそんな古い本を翻訳したのか」という疑問を提起する。ケンペルが滞在した当時(元禄時代)と比べれば、一一〇年後の志筑の時代には、日本を取り巻く状況は大きく変化していた。その変化を志筑はよく知りうる立場にあった。とすれば、なぜわざわざそんな古いケンペルの見聞録を翻訳したのだろうか。
 池内氏は、「志筑が政治向きの問題に強い関心を寄せ、何がしかの意見表明をしようと意図して」翻訳したのではないかと推測している。では、その「何がしかの意見表明」とはどのような内容なのだろうか。
 志筑はおそらく『日本誌』全体に目を通しただろう。その中から「鎖国論」のみを訳したのには、単に時間的あるいは体力的な制約という以上の何らかの理由があったはずである。『日本誌』の多くの記述は志筑の時代にはもう古くなっていたことを志筑がよく自覚していたことは、ある註に「ケンペル以来、既に百余年も経っているのだから、我が国の風俗はその頃と今とでは変わっていることもある」と記していることからも明らかである。
 当時の日本を取り巻く状況を池内氏の叙述に沿っておさらいしておこう。
 一八〇〇年前後、ロシアから日本への圧力が強まりつつあった。工藤平助(1734‐1800)が『赤蝦夷風説考』を完成させたのが一七八三年で、同書はロシアの南下を警戒しつつ蝦夷地開拓を積極的に行うことを勧めた著作である。続いて、林子平(1738‐1793)が隣接する朝鮮・琉球・蝦夷の三国と小笠原諸島の地理や風俗などを詳しく書いた『三国通覧図説』(1785年)を、さらに一七九一年には『海国兵談』を刊行し、そのなかに「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也」と書き、世界が海を通じて結びついており、やがて外国から圧力がかかって国を開かねばならなくなるということを暗示していた。
 一七九二年、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、それに同行した漂流民の大黒屋光太夫以下の三名が帰国を果たしたが、その聞き書きを桂川甫周が『北槎聞略』としてまとめ、ロシア国内の政治の内情やロシアにおける日本語教育の状況などを記している。志筑自身、一七九五年にロシアのシベリア開拓や清との交渉の由来を記した『露西亜来歴』を刊行しており、ロシアの進出に刺激を受けて翻訳したと思われる。
 このような社会情勢が背景にあって『鎖国論』の翻訳はなされた。明日の記事から、『鎖国論』におけるケンペルの所説とそれに対する志筑の注解を見ていく。