内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

科学思想史家としての志筑忠雄(7)― オランダ王国滅亡、ロシアの南下政策、キリスト教への嫌悪

2023-08-18 00:00:01 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げた松尾龍之介氏の『長崎蘭学の巨人 志筑忠雄とその時代』には、1789年のフランス革命以後のヨーロッパの地政学的情勢、特に1795年のオランダ王国滅亡後のイギリスとフランスとの緊張関係についての記述(148‐151頁)があり、そこからなぜ1797年にオランダ船以外の外国船「異国船」が長崎に来航したかの理由がわかる。この異国船来航とロシアの南下政策がますます活発化する時期とが重なる。
 松尾氏は、その当時の状況に対する志筑忠雄やかつての大通詞吉雄幸左衛門の憂慮を次のように叙述している。

 吉雄幸左衛門も忠次郎(=志筑忠雄)もこのところ長崎に四年続けて異国船しか入らないことを憂慮していた。このようなことを放置しておいたら、日本はいつの日かキリシタン国の入船を許してしまうことになりかねない。そうなれば、再びキリシタンを排斥するための内乱が起きるのは必至である。(180頁)

 この直後の段落で、松尾氏は、長崎人特有のキリシタンに対するアレルギーに言及する。

 このキリシタンに対するアレルギーは、毎年、正月に絵踏をさせられる長崎の住人ならではの特別の感情だった。絵踏は、まだ歩けない赤ん坊でさえ、母親に抱えられたままの姿勢で踏まされ、死に瀕した病人といえども布団まで絵板を運び、足を触れさせられるのである。だから長崎の人々はすべての町内の踏絵が終わる一月九日までは正月気分など味わうことができなかった。そういう中で成長した忠次郎も、キリシタンへの憎悪感は身体がしっかりと憶えている。特に彼が住んでいた外浦町は、かつてはポルトガル人が住んでいたところであり、その反動から宗門改はひときわ厳しく、転び(改宗)を拒否すれば、拷問に遭ったり街から追放されたりした。こうして一切のキリシタン色を払拭したのちの長崎は、絵踏に見るように他の町よりキリシタンを激しく忌み嫌った。(180‐181頁)

 そして、松尾氏は、その例証として、志筑忠雄の初期の作、『万国管闚』(1782)から以下の箇所を現代語訳して引用している。

人間(人間性)が、はなはだ残忍で慈しみがないのは西洋(ヨーロッパ)が一番である。総じて、耶蘇教徒の国の人は気性が殺伐としており、国を治めるのに主に猛威を以て行う。そうしてそういうやりかたを万国に広め、愚民を惑わし、入信させる。キリストは自分たちのために死んだのだから、自分たちもキリストのために命を惜しむなかれと説いて、ついに他国を侵略し、その属国はいま非常に多い。その教えは悪質であると同時に、恐るべきものである。(181‐182頁)

 松尾氏は、さらに、ケンペルの『日本誌』から鎖国論を訳出するというアイデアが吉雄幸左衛門の示唆によるという仮説に基づいて二人の会話を創作している。
 なぜ志筑忠雄が『鎖国論』を訳出・注解したか、その理由に関連する箇所として松尾氏の著作から拾いだせるのは、昨日言及した箇所と以上の箇所である。
 そこからわかるのは、志筑忠雄が『鎖国論』を訳したのは次のような状況認識に基づいているという仮説に松尾氏が立っているということである。
 異国船の来航が続き、キリスト教国からの異国船の来航もありうる。日本が再びキリスト教の侵入を許せば、内乱は必至である。他方、北方は、ロシアの南下政策の矢面に立たされ、予断を許さない緊迫した情勢である。このような状況下で、国内の秩序を維持するために幕府が取りうる最良の政策は、鎖国政策の堅持である。ドツ人ケンペルが書いた鎖国肯定論である『鎖国論』はその政策を擁護する一つの根拠となりうる。
 以上は、松尾氏の著作に基づいての推論であり、私がそれに同意しているわけではない。
 明日の記事から、今回の連載で参照する最後のテキストである池内了氏の『江戸の宇宙論』(集英社新書、2022年)からの摘録とそこに提示された仮説の検証に入る。