内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

科学思想史家としての志筑忠雄(1)

2023-08-12 09:00:19 | 読游摘録

 「鎖国」という語が始めて使われたのは、長崎出島のオランダ商館付きのドイツ人医師ケンペルが祖国に帰国後に執筆した『日本誌』のオランダ語訳を長崎のオランダ通詞志筑忠雄(1760‐1806)が1801(享和元)年に「鎖国論」と題して訳したときであるという記述は、高校の日本史教科書にも載っている。
 しかし、志筑忠雄に関してそれ以上の記述が高校の教科書及び同レベルの参考書類に見られることはほとんどない。せいぜい、江戸後期の蘭学の発達という項目で、志筑は『暦象新書』を著し、ニュートンの万有引力説やコペルニクスの地動説を紹介し、独自の星雲説(宇宙創成論)を唱えたことに言及されるくらいである。
 これらのあまりにも粗略な記述は、志筑忠雄が蘭学者として江戸後期の科学研究にもたらした貢献に対して不当であるばかりでなく、「鎖国論」が登場する歴史的文脈の記述として不正確の誹りを免れない。
 確かに志筑忠雄は長崎でオランダ通詞として働いたことがあるが、それは18歳のころの一年ほどに過ぎず、病弱多病を理由に早々に引退し、家督を養子に譲り、以後亡くなるまでの二十数年間、多数のオランダ語文献を訳し、それに独自の注釈を加えることに専心した。
 だから、志筑が「鎖国論」を訳したのはオランダ通詞としてではなく、特に天文学に通じた蘭学者としてなのである。
 ここから次の二つの問いが生まれる。ケンペルの『日本誌』の記述は志筑の時代から百年以上前の元禄期の日本についてであり、志筑は当時の政治・経済・社会・国際情勢と彼の時代のそれらとの間の大きな違いを当然認識していたはずである。だとすれば、十九世紀の初頭にどのような理由で「鎖国論」を訳したのか。これが第一の問いである。そして、志筑が心血を注いだオランダ語の科学文献の翻訳と「鎖国論」はどのような関係にあるのか。これが第二の問いである。
 この二つの問いについて、いくつかの著作を手がかりにしながら、何回か考察してみたい。