内的自己対話-川の畔のささめごと

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私撰涼文集(十)台所に入って料理をつくる武士たち ― 大岡敏昭『新訂 幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む』より

2023-08-03 00:02:25 | 読游摘録

 6月16日の記事で大岡敏昭著『武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景』(角川ソフィア文庫、2014年。原本、相模書房、2007年)を取り上げた。その新訂版『幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む』(水曜社、2019年)は、原本や角川ソフィア文庫版ではモノクロだった尾崎石城の手になる挿絵がカラー版となり、しかも多数の挿絵が追加された大版で、それらの挿絵を眺めているだけでもほのぼのと楽しい一書である。
 江戸から一五里(約六〇キロ)ほど離れた武蔵野の一角にあった小さな城下町(現在の埼玉県行田市)は、松平氏所領の忍(おし)藩一〇万石の城下町で、尾崎石城はそこで暮らす下級武士であった。その日常生活の一年数ヶ月を記録した『石城日記・七巻』は、幕末の小親藩の下級・中級の武士たちの暮らしと城下町に生きる人たちの温かい交流とを飄々とした筆致でユーモラスな挿絵とともに活写したとても興味深い史料である。
 本書の著者である大岡敏昭氏は、日本の住宅の研究を専門とする工学博士で熊本県立大学名教授である。氏は、石城の日記本文を丹念に読み、挿絵を仔細に観察し、共感満ちた筆致で細やかに石城の日常生活を紹介・解説していく。
 忍藩の下級武士の日常生活の姿がどこまで他藩の同様な身分の武士たちの場合と共通するのかはわからないが、少なくとも幕末の忍藩の下級武士たちの暮らしは、一般に想像されるような、そして時代劇で描かれるような武士像とはかなり異なっている。大岡氏は「まえがき」に、「下級武士たちの暮らしはとても貧しかったが、それをはじき返すような闊達さやおおらかさがあった」と記している。
 特に私が驚かされたのは、下級と中級の武士たちの間だけでなく、それら武士たちと僧侶や町人たちとの間にも「身分の垣根を越えた日常的付き合いがあった」ことである。「石城を含めた下級武士たちの家には、中下級を問わず多くの武士が訪れ、寺の和尚や料亭の女将もやってきてはともに酒を飲み、場合によっては武士の家に泊まっていく。」寺にも町人と武士たちがよく集る。大岡氏が特筆すべきこととしてさらに強調するのは、「虐げられた者への、貧しい者への思いやりと助け合いの心」である。
 本書の頁を繰っているとき、convivialité というフランス語が自ずと思い合わされた。この語は、イヴァン・イリイチが一九七三年に出版した Tools for Conviviality によって広く知られるようになったが、もともとはラテン語の動詞 convivere に由来し、その原義は「共に生きる」ということである。現代フランス語としては、特に食事を共にすることについて使われる。まさにこの意味において、石城と彼を取り巻く中下級武士たちとその家族、寺の和尚たち、町人たち(そのなかには、女手一つで子どもを育てている未亡人もいる)は、一つのコンヴィヴィアリテの共同体を形成していたと言えるのではないだろうか。
 本書は全体が涼文と言ってもよいくらいであるから、一箇所撰ぶのに迷ってしまうが、石城が友人宅の法事の手伝いに他の下級武士たちと駆けつけ、法事が終わったあとに、手伝ってもらった人たちや親しい者だけに料理と酒が振る舞われたとき(これをお斎(とき)という)のことを叙した一節からほんの少しだけ引用する。

この三人(下級武士二人の妻と青山という中級武士のこと)は朝早くから法事の手伝いに駆けつけていた。とくに青山は終日台所に入って主人(川の舎)が料理をつくる手伝いをする。二人の武士が台所で終日料理をつくっていたことは愉快であり、また驚きでもあるが、中級武士の青山が下級武士の家の台所に入って料理をつくっていたこともさらに驚きである。そこには中級と下級との身分の垣根はまったくなかったようだ。
 石城は、今日の料理は主人がつくったものであり、きわめておいしかったと記す。主人である川の舎は、前に述べた石城の自宅で催された田楽酒宴のときも自分で魚を買ってきて、いろんな料理をしていた。川の舎は料理が得意であった。このように江戸時代の武士は台所に入って料理をつくり、そのことを結構楽しんでいた。(74頁)