内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

目から落ちたウロコの後始末 ― 『Kセンセイの夏休み愚考録』(非売品)より

2023-08-08 01:20:33 | 哲学

 「目からうろこが落ちる」という慣用句は、『新約聖書』「使徒行伝」第九章一八節に由来する。
 それまでイエスを迫害していたサウロに天から光がさして、彼は昏倒する。そしてイエスの声を聞く。再び立ち上がったとき、目を開いてみたが、何も見えなかった。三日間その状態が続き、サウロのもとをイエスの声に従って訪れたアナニアがサウロの上に手を置き、自分がイエスによって使わされた理由を説明すると、たちどころに、サウロの目から、「うろこのようなもの」が落ちて、元どおり見えるようになった。以後、使徒パウロはキリスト教の熱烈な伝道者になる。
 「目からうろこが落ちる」が日本語の慣用句になるのは明治以降のことで、初出がいつか、いま探索の手立てがないが、おそらくは明治期のキリスト教徒たちが使いはじめ、それがいつのまにか元の文脈を離れ、「何かがきっかけとなって、今までわからなかったことが、とつぜん、はっきりと理解できるようになる」(『角川必携国語辞典』(大野晋・田中章夫編、一九九五年)という意味で広く使われるようになったのであろう。
 聖書では、「うろこのようなもの」となっていて、「うろこ」そのものではない。それに、サウロが一旦仮性盲目状態に陥ってから再び目が開かれるまでには三日経過しており、しかも、第三者の介入があってはじめて元のように見えるようになったのだから、慣用句はもはや元の聖書の文脈から乖離した意味で使用されていると言ってよい。ただ、ここで聖書釈義をするつもりはないので、この文脈乖離の問題は措く。ここでの問題は、この「うろこのようなもの」とは何か、ということである。
 この「うろこのようなもの」が目を覆っている状態にあるとき、人は目が見えないわけではなく、本人は普通にものが見えていると思い込んでいる。コンタクトレンズを装着しているのにそれをすっかり忘れているような感覚に似ている。しかし、コンタクトレンズがポロリと外れると、よく見えなくなってしまうのに対して、「うろこのようなもの」が落ちると、物事が今までとはまるで違って見え、しかもそれまで見えなかったものがよく見えるようになる。「目からうろこ」体験は、自分がそれまで生きてきた世界にあたかも生まれ直したかのような新鮮さを伴っている。
 ところで、落ちた「うろこ(のようなもの)」はどう処理されたのであろうか。聖書には剥落後の「うろこのようなもの」のゆくえについての記述はないし、慣用句として使われる文脈でも「うろこ」の後始末が問題になることはまずない。「うろこ」が落ちて、物事がよく見えるようになったことを喜ぶあまり、落ちた「うろこ」など踏みつけにして忘れてしまったのであろうか。
 しかし、と我愚考す。この「うろこ」の成分を分析し、それがなぜ目を覆い、にもかかわらずそのことに気づかないままだったのか解明しないかぎり、またいつのまにか別の「うろこ」によって目が覆われてしまい、そのことに気づかないままうかうかと時を過ごすという極めて危険な状態に陥らないともかぎらない。
 日常生活における哲学の役割は、「知らないのに知っていると思っている」対話の相手を「目からうろこが落ちる」体験へと導くことにあるだけではなく、その落ちた「うろこ」について反省的に分析し、「うろこ」生成の原因を解明し、二度と「うろこ」によって目が覆われないようにする後始末もそこには含まれていると我は愚考する。