内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

私撰涼文集(九)「彼は美しい果樹園のなかを歩いている」― 保苅瑞穂『モンテーニュの書斎』より

2023-08-02 00:39:46 | 読游摘録

 五月の「マイ・モンテーニュ月間」中に一度取り上げた『エセー』第三巻第十三章「経験について」の「わたしは踊るときは踊るし、眠るときは眠る」に始まる一節はそれ自体が涼文と言っていいと思うが、その一節について書かれた保苅瑞穂の『モンテーニュの書斎』の一節もまた、モンテーニュの文章の機微をよく捉え、情理兼ね備えた美しい涼文である。是非その全体を読まれたし。ここにはそのための「誘い水」として一部のみ引く。

 彼は美しい果樹園のなかを歩いている。ただひとりで歩いている。それがまず必要なことなのだ。連れを持たずに孤独であることが精神と自分を散歩に集中させるのに欠かせない要因だからである。散歩というのはだれでもする単純な運動であり、気晴らしであるが、散歩しているときの心身の状態というのは普通に思うほど単純なものではない。モンテーニュは「(c)私の考えは、座らせておいたのでは眠ってしまう。私の精神は、脚がそれを揺り動かさなければ進まない」(IIIの三)といっていたが、肉体の歩行は脳に刺激を与えて精神の活動を促す。だからルソーのような孤独な散歩者は歩きながら思索や夢想に耽ることができる。また感覚を目覚めさせて周囲の事物にいっそう敏感に反応させもする。こうして心と体はともに生き生きと働きはじめる。それが彼がいっている「孤独の心地よさ」なのである。
 モンテーニュはそんな状態でたったひとり果樹園を歩いている。目には果樹園だけが存在する。その目が果樹の連なりを見ているうちに、見ているという意識が薄れて、美しい果樹が彼の感覚のすべてを満たすようになる。見るという行為がもっとも深くなるとき、わたしたちは見ているという意識をなかば失って、見ている主体は対象のなかへ吸い取られてゆく。そうした現象が彼と果樹とのあいだで起こっていたにちがいない。「踊るときは踊る」、「眠るときは眠る」という心身の集中を意味する文脈からいってそうでなければならないだろう。そうやって散歩を続けながら、彼の自我の意識は果樹のなかに消えてゆき、果樹そのものに同化する。そのとき彼はほとんど無意識になった自分の存在と目の前の果樹とが一つに溶け合った状態に置かれている。人はなにかに見入っているときそうした無我の状態に置かれて、いわば離れたまま目で物に触れている。それが本来見るという行為の実際なのである。