内的自己対話-川の畔のささめごと

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おのれのほかに対象がない生への執着が地獄である ― シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より

2024-06-21 11:03:53 | 読游摘録

 フランス語に moignon という言葉がある。フランス語歴史辞典によれば、古フランス語として遅くとも十三世紀には登場している。「(切断された四肢の)残り部分」、より正確には、「切断された肢の切断面から関節までの部分」という意味で使われた。どうしてこの部分を特に指し示す言葉が必要とされたのだろうか。もともとは医学用語として使われたのでもないようである。
 この言葉、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』に四回出てくる。いずれも幻影肢(membre fantôme)の現象を考察している文脈においてである(p. 90 - 102)。この文脈では、切断後に残った当該部位を指し示すために使われているから、おぞましい印象を与えることはない。
 シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』のなかにこの同じ言葉が使われている箇所がある。そこではおぞましい印象を与える。ただし、この箇所、ティボン版にはなく、ガリマール社の『シモーヌ・ヴェイユ全集』第六巻のカイエ(II)にのみ見られる(p. 321)。この語が見られる断章は全集では全部イタリックになっており、それはヴェイユの手書きのノートでは下線で強調されていたことを意味する。
 その断章の最初から三分の二ほどが岩波文庫版では訳されている。「自我」(Le moi)と題された八番目の章に収録されている(訳者の慧眼に深謝)。

 不幸の淵に沈み、あらゆる執着が断たれても、生命維持の本能は生きのびて、どこにでも巻きひげを絡ませる植物よろしく、支えとなりそうなものに見境なくしがみつく。かかる状況にあっては、感謝(低劣な次元のものはいざ知らず)や公正は思念にすらのぼるまい。隷属。自由意志を支えるエネルギーの余剰量がたりない。この余剰のおかげで事象にたいして距離をおくことができるというのに。この局面から捉えられた不幸は、剝きだしの生のつねとして、切断された四肢の残滓や蠢き群れる昆虫にも似て、ぞっとするほどおぞましい。形相なき生。生きのびることが唯一の執着となる。いっさいの執着が生への執着に取って替わられるとき、極限の不幸が始まる。このとき執着は剥きだしで現われる。おのれのほかに対象がない。地獄である。
 この境界をふみこえ、ある期間その状態にとどまり、その後、なんらかの僥倖に恵まれたとき、そのひとはどうなるのか。この過去からどうやって癒やされるのか。
 かかる仕組みゆえに、「不幸な人びとにとって生ほど甘美に思えるものはない。たとえ彼らの生が死より好ましいとは思えないときでさえも」。
 かかる状況で死を受け入れることは執着のまったき断念を意味する。

 「この局面から捉えられた」からその段落の終わりまでの原文を以下に示す。

Le malheur sous cet aspect est hideux, comme est toujours la vie à nu ; comme un moignon, comme le grouillement des insectes. La vie sans forme. Survivre est là l’unique attachement. C’est là que commence l’extrême malheur, quand tous les attachements sont remplacés par celui de survivre. L’attachement apparaît là à nu. Sans objet que soi-même. Enfer.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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