内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

情緒論素描(十八)― 悲愛未分の基礎的感情としての「かなし」

2020-10-12 15:12:02 | 哲学

 和辻が『風土』の序言の最初の段落で、風土は自然環境ではないと言うとき、後者は前者を具体的地盤として、そこから「対象的に解放され来たったもの」だということがその論拠になっている。風土を問題にすることは、「主体的な人間存在にかかわる立場」においてはじめて可能になるというが和辻の主張だ。
 しかし、対象化しえないものをいかにして考察できるのか。一旦私たち人間存在との関係を括弧に入れて対象として取り扱うことなしに風土を考察するとはどういうことなのだろうか。
 和辻の風土論を批判することはそれほど難しいことではない。理論的にはむしろ隙だらけだと言ってもよい。それにもかかわらず、今もなおその中に私たちを惹きつけるものがあるとすれば、それはなぜなのか、というのが私の問いである。
 そこで私はその問いを探究する手がかりを情緒に求め、特に「なつかしさ」に注目した。情緒は一言で言い表せるものではないとしても、それと深く結びついている言葉がいくつかある。その原義にまで立ち返るとき、情緒の基層へと至る途が見えてくるのではないかという仮説に立って、「なつかし」について考察した。
 同じ仮説に立って、「かなし」という言葉の意味するところを見ておきたい。例によって、いくつかの古語辞典にあたってみた。
 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版 2011年)の「かなし」の解説の一部を見てみよう。

子供や恋人を喪失するかもしれないという恐れを底流として、これ以上の愛情表現は不能だという自分の無力を感じて、いっそうその対象をせつなく大切にいとおしむ気持ちをいう。自然の風景や物事のあまりのみごとさ・ありがたさなどに、自分の無力が痛感されるばかりにせつに心打たれる気持ちをもいう。

 「愛し」と漢字を充てることでこの意味をよく反映させることができる。この意味で「かなし」が使われている例は、万葉集、古今和歌集、伊勢物語、竹取物語、源氏物語などから簡単に見つけ出すことができる。
 大伴旅人の名歌「世の中はむなしきものと知るときしいよよますますかなしかりけり」の「かなし」の原文は「可奈之」だが、通常「悲し」を充てることが圧倒的に多い。しかし、今日私たちが使用する通常の意味での「悲しい」とも「哀しい」とも、この旅人の「かなし」は違うのではないか。単に悲嘆するということではないのではないか。
 確かに、この歌の題詞には、「禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣」(不幸が重なり、悪い報せが続きます。ずっと崩心の悲しみに沈み、独り断腸の涙を流しています)とあるから、「悲し」の意に取るのが順当だと思われる。この歌の前半に仏教語「世間空」「世間虚仮」の翻案を見、世間を空と感ずる思想の集中最初の表現とすることで専門家は一致している。
 しかし、「かなし」がただただ「悲し」を意味すると取るよりも、悲と愛とが分かちがたく結びついている、あるいは悲愛未分のより根源的な情としての「かなし」と取ることで、歌にさらなる深みと味わいが出て来るのではないだろうか(この旅人の歌については2014年1月11日2019年2月26日の記事で取り上げているので、参照していただければ幸いである)