内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「せつない」ってどんな気持ですか

2020-10-19 23:59:59 | 講義の余白から

 今月14日の記事で古語「かなし」について若干の考察を試みた。それは、一つには風土論との関連においてだったが、もう一つには、「日本の文明と文化」の今日の授業で取り上げるための準備という目論見もあった。先々週から、二時間の授業の中の十五分から二十分くらいを使って、「日本文明・文化を読み解くキーワード」と題して、一回に一語ないし二語を取り上げて説明することを始めた。第一回目は「なつかし」、第二回目は「もの」と「こと」、そして第三回目の今日は「かなし」だった。その説明内容は、14日の記事のそれとほぼ重なるので繰り返さない。
 この授業でいささか工夫を要するのは、日本語学習者に日本語で日本語を説明する際に、彼らの現在の日本語理解力に合わせて説明を組み立てることである。
 14日の記事で引用したように、「悲し・哀し」の語意説明に「せつない」という語が見られる。日本人なら、自分の語感で「せつない」の意味を説明できるだろうし、仮にうまくはできなくても、「せつない」気持ちになったことはあるだろうから、意味の了解にさほど困難を覚えないだろう。
 ところが、私が教えている学生たちとって、たとえそれが最優秀の学生であっても、「せつない」を、例えば、「悲しさや恋しさで、胸がしめつけられるようである」と日本語で説明されただけでは、今ひとつピンとこない。こういうときには実例を挙げる。ただ、それがありきたりの例だと、当該の言葉のニュアンスが心に染み透るようには入って来ない。
 そこで、今日試みたのは、吉野弘の「I was born」(一九五二年に詩誌『詩学』に発表)の全文朗読である。戦後の散文詩を代表するこの名作には、「せつなげだね」と「ただひとつ痛みのように切なく」という表現が終わりの方に出てくる。その部分だけ読んだのでは、しかし、ニュアンスは伝わらない。そこで、最初から全文朗読した。いくつかの難しい言葉を除けば、学生たちはスクリーン上に投影された詩の文面を私の朗読に合わせて眼で追っていくだけで情景が浮かぶ。そして、最後の部分が来る。

淋しい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裏に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。

 学生たちは静まりかえって聴いていた。詩の力がそうさせたのだ。彼らは「せつない」という日本語をおそらくもう忘れることはないだろう。

 

註 〈淋しい 光りの粒々だったね〉は、『幻・方法』(一九五九年)に再録のとき、〈つめたい光りの粒々だったね〉に改められた。