内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

情緒論素描(二十)― 面影としての風土の方法的現前化の探究

2020-10-15 20:29:33 | 哲学

 「面影」は美しい言葉だ。響きがよい。漢字で書いても、平仮名で「おもかげ」と書いても、「絵」になる。そして、なによりも、万葉の時代から使われているこの言葉にはとても深い含蓄がある。
 例によって、『古典基礎語辞典』の解説をまず見てみよう。

オモは顔の正面、カゲは光によって現れる像。実体はそこには存在しないが、思い出や夢、想像でありありと思い浮かんでくるもののすがた。鏡に映る像。人やその容貌に使うことが多いが物や情景にも使う。過去に目にしたものに対して使うのが主であるが、未見の想像の場合にもいう。

 語釈①「目の前にいるかのように思い出や夢の中に出てくる人やものの像」の㋒「現実にそこに存在するかのように思い浮かんでくる物のようすや情景」の例として、万葉集・巻三・三九六の笠郎女の歌が挙げられている。この歌は、笠郎女が大伴家持に贈った歌三首のうちの第二首で、譬喩歌に分類されているが、内容的には相聞歌である。

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを
(陸奥の真野の草原、この草原は遠くにある地でございますが面影としてはっきり見えると世間では言っているではありませんか。なのにあなたはどうして見えてくれないのですか。『新版 万葉集』伊藤博訳・注 角川文庫 2009年)

 面影はまた、中世の歌論において、「作品から鑑賞者が思い浮かべる心象や情景。または、余情」を意味した。引例は、鴨長明が『無明抄』の中で紀貫之の「思ひかね妹がりゆけば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり」を「この歌ばかり面影あるたぐひはなし」と評している箇所。
 面影は、不在あるいは失われてなお慕わしい人・物がただ自ずとありありと立ち現れてくることばかりではなく、そのような喚起力をもった歌を評価する際に使われる言葉でもある。つまり、面影は、詩歌という方法によって喚起されうるものでもあるということだ。
 私たちはもう風土を現実に生きる場所としては感じられなくなってしまった時代を生きているのかもしれない。たとえそうだとしても、面影としての風土を想起することさえもできなくなってしまったわけではないことを長明の評言は示唆している。とはいえ、失われた風土をただ漠然と懐かしむだけ、ましてやそれを嘆き悲しむだけでは、面影がありありと立ち現れてくれることはない。
 面影としての風土の自発的現前を方法的に探究すること、この一見して矛盾を孕んだ試みに、哲学と文学が交叉する場所での風土論の可能性を私は見ている。