内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

空観とは異なる「無常」の思想的深化の過程を日本精神史の裡に辿る

2019-02-26 15:32:59 | 哲学

 大伴旅人の著名な歌、

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(巻第五・七九三)

については、二〇一四年一月十一日の記事で、一度取り上げている。その時の解釈を修正する必要は今特に感じないが、佐竹昭広の「「無常」について」(『萬葉集再読』所収)に関連して、「空」と「無常」との違いについて一言注記を加えておきたい。
 この旅人の歌について土屋文明が『萬葉集私注』で示した、「此の「空しきもの」を「常なきもの」と置きかへて受け入れたのでは作意に達することは出来ない」という理解を「鋭い」と佐竹は評価する(九〇頁)。土屋は「五蘊空とか色即是空とかいふときの「空」に近いもので、単に「無常」といふより広く、形而上の意味で用ゐたものと思はれる」と註してもいる。確かに、この歌の上二句が仏教でいうところの「世間空」の和語による翻案であると指摘する注釈は他にも多い。
 この「世間空」が「世の中の一切を空と観ずる」ことであるならば、それは移ろいやすい世の中を無常と嘆ずる「はかなし」に代表される感情とは異なる。観は、それ自体が移ろいゆくものである感情ではありえない。和語「むなし」は、大野晋編『古典基礎語辞典』によれば、「ミ(身)の古形ムとナシ(無し)の語根ナとの複合語に、情意を表すシク活用語尾のシを加えた語。実際にはク活用形容詞のように、状態を表すのに使うことが多い。そこにあるべきだと期待される中身、実体がない感じをいう。」「むなしさ」は、本来あるべきものの不在あるいは消滅が引き起こす感情であり、これもまた観としての「空」とは異なる。しかし、「無常」は「空」によって無限に超え包まれているとも簡単には言えない。
 仏教における無常観がそれとして無媒介に日本の思想風土にそのまま根づいたとは、万葉集を見るかぎり、考えにくい。平安期に主に男女の仲を意味した「世の中」の移ろいやすさ・頼りなさについて「はかなし」という語によって表現された感情が、中世において「無常感」としてより一般的・通底的な社会的感情として自覚され、それが歴史的現実を通じて「無常観」へと思想化され、そこから道元の無常の形而上学が精錬されてくるという、唐木順三が『無常』で示したような歴史を通じての「無常」の思想的深化の過程を見て取るべきではないかと思う。












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2 コメント

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Unknown (funkytrain)
2019-02-27 09:27:28
ご無沙汰しております。以前、万葉集に関して投稿した者です。
以下に書くのは反論とかクレームとかではなくて「ふと思うんですが」というようなニュアンスのこととしてお読みくだされば幸いです。

早速ですが唐木順三が言うような、歴史をリニアに深化/進化のプロセスとしてみる見方が現実に即しているのか、やや疑問に感じています。
そのほうが説明としては理解しやすいのですが、ことが芸術となってくると事態はそのように推移していないのではないか。
たとえばバッハの音楽に比べて和声的にワーグナーはある種の進化を遂げていると言えなくもないですが、音楽の精髄としてみたらば、そうとも言えないという気がするからです。
芸術を純粋経験の発露としてみるなら、その純粋経験に唐木が見るような発展のプロセスがあるようには思えないのです。そしてそうではないからこそ、万葉の歌が現代のわれわれにも訴求してくる力があるのではかろうか、と。古代ギリシャの哲学と現代の哲学を比べて、古代から現代にかけて思索の根源が進化ないしは深化したとは思えない、というようなことと似ている気もしますがどうなんでしょうか。
もちろん多くの変化がおきているのも確かなのですが、それは深化というよりは拡張、ひろがり、というような感じもします。
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Unknown (funkytrain)
2019-02-27 10:39:52
言葉足らずな気がしたので、もうひとつ書かせてください。

要するに、歴史的な変化のあるところにわれわれが「深化」や「進化」を見ずにはいられないところに、芸術を論じる場合の罠があるのではないか、という気がするのです。

たしかに思想が体系化されてゆくことをもって「深化」と見たくなる気持ちはないではない。端的に「はかなし」と言うだけであったものが、道元の無常の形而上学へと至るとき、なにやら「深化」が実現されているようにも思われる。しかしその場合の「深化」とは「説明の緻密さ」の向上というようなものではないのか、と思うのです。

そもそも日本的な無常への感性は仏教が輸入される前からわれわれの祖先たちにとって深く実感されていたように思います。現代にくらべて比較にならないほど死が間近にあった時代の人々にとって「はかなし」は思想や感情であるより先に「現実」としてあったのではないか。

説明は深化しても、言葉が生まれてくるところの、言葉の源泉をなす純粋経験は深化しない、というか「深化するとかしないとか言えない」エリアではないか、と。それが様々な仕方で開花するときに芸術は生まれるのかなと、そう思います。
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