内的自己対話-川の畔のささめごと

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「紛るる方なく、唯独り在る」― パスカルにおける「人間の不幸」に対する応答としての兼好の「つれづれ」

2024-09-08 17:03:10 | 読游摘録

 昨日の記事の最後に見た段階にまで深められた「すさび」は、もはや荒びもなければ、遊びでもない。
 唐木は、「すさび」に続く第二節「つれづれ」で『徒然草』の第七十五段の全文(9月2日の記事に全文を掲載した)を引いたうえでこう述べる。

 荒びたる無聊をそのままとして受取ろうというのである。慰めごと、紛れごとによって、それからの逃亡を企てない。むしろ、紛れる方なく、逃れる方なきところに身をおいて、すさびにすさびたるさま、諸縁によって生ずるさまざまな起伏、波瀾の、「闌れ尽し」「衰へ止み」つくして静まりかえった「無聊索漠」たるさまを、そのままみようというのである。「すさび」から「遊び戯れ紛れ」の意味をとりさって、その本来の意味を限定し、また主観の側で、面々すさびたるさまに対してそこから眼をそらさない状態が、もともとの「つれづれ」の意味、強くいえば形而上学的な意味(心理的にあらざる)といえるであろう。ここでは divertissement はすべて否定され、ennui を ennui のままに受取ろうというのである。世間との交際、人とのつきあい、社交、交歓、消閑、さらにまた数奇事、すなわち娯楽、伎能、学問をも捨てて、その捨てた状態に於てあらわになる荒びたる「つれづれ」をそのままに受取ろうというのである。

 このように徹底化された「つれづれ」が、パスカルが『パンセ』のなかで指摘している「人間の不幸」に対しての兼好の応答になっていると私には思われる。

 気を紛らすこと。
人間のさまざまな立ち騒ぎ、宮廷や戦争で身をさらす危険や苦労、そこから生じるかくも多くの争いや、情念や、大胆でしばしばよこしまな企て等々について、ときたま考えた時に、私がよく言ったことは、人間の不幸はすべてただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かにとどまっていられないことに由来するのだということである。

Divertissement.

 Quand je m’y suis mis quelquefois à considérer les diverses agitations des hommes et les périls et les peines où ils s’exposent dans la cour, dans la guerre, d’où naissent tant de querelles, de passions, d’entreprises hardies et souvent mauvaises, etc., j’ai dit souvent que tout le malheur des hommes vient d’une seule chose, qui est de ne savoir pas demeurer en repos dans une chambre. (B. 139, L. 136, S. 168, LG. 126)

 『徒然草』の第七十五段が『パンセ』のこの断章への応答になっていることは、その仏訳を見るとよりいっそうはっきりとする。

 Pour souffrir de l’oisiveté, que faut-il donc avoir au cœur ? Une solitude sans divertissement est à coup sûr le souverain bien.

[…]

 Ne connût-on pas même encore la Vraie Voie, c’est en se gardant recueilli par un détachement de tous liens ; c’est en assurant la paix de son cœur par une abstention des affaires, qu’on aura titre à un instant de bonheur. […]

Les heures oisives, traduction et commentaires de Charles Grosbois et Tomiko Yoshida, Gallimard, 1980, p. 85.

 「紛るる方なく、唯独り在る」が une solitude sans divertissement と訳されているのは、おそらくは訳者たちが『パンセ』の断章を念頭に置いてのことではなかったであろうか。いまだ(救済のための)誠の道を知らずとも、すべての縁から離れることによって(par un détachement de tous liens)、たとえひとときであれ、幸いなる時を過ごすことができるであろう。それ以上なにを望むことがあろうか。これが「つれづれ」であると兼好は言いたかったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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