内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

情緒論素描(十二)― 気色・眺め・情景論への展開 ②

2020-10-03 23:59:59 | 哲学

 「けしき」(気色)とは、視覚的に何かを表わしている現れであり、あるものの情的表現現象である。情的な立ち現れである。それに対して、「ながめ」は、長い時間じっとひと所に目をやっている意の「ながむ」という動詞の連用形名詞であるから、眺める者の情意性が眺めのうちに最初から浸透している。「けしき」では、情意が気色そのものから発しているのに対して、「ながめ」においては、眺めるものの情意が眺めとして広がっている。つまり、両者の情意のベクトルは互いに真逆なのである。
 動詞「ながむ」は、長時間凝視していることから、鑑賞的に見る、しみじみ見るなどの意にも用いられたが、そのように眺められた対象は、眺めている者の情意の志向的対象として現れているものである。眺めは、眺める者の情意を表現している、いや、その情意そのものである。
 『古典基礎語辞典』は「ながむ」の語釈として次の四つ挙げている。
 ① もの思いにふけって、ぼんやりとひと所を見やっている。② 直接見る対象に心を注がず、もの思いに沈む。憂愁のうちに過ごす。③ 遠い距離に視線を放つ。見渡す。しみじみと見る。④ 何もせずにただ見ている。有効な手を打たずに放置する。
 眺めは眺める者のこれらの心的状態をそれぞれに表わしている。眺めと長雨とを掛けるのは平安朝文学の常套手段であるが、『和泉式部日記』の次の一節では、長雨は眺める女の心模様そのものである。

 雨うち降りて、いとつれづれなる日ごろ、女は、雲間なきながめに、世の中をいかになりぬるならんとつきせずながめて、「すきごとする人々はあまたあれど、ただ今はともかくも思はぬを、世の人はさまざまに言ふめれど、身のあればこそ」と思ひて過ぐす。

 ここでは、風景と心情とが響き合っているというよりも、晴れ間なく降り続く長雨が女の心なのであり、眺めることにおいて景情が融合している。