内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

情緒論素描(十五)― 風土と倫理を繋ぐものとしてのエトスとエートス

2020-10-07 23:59:59 | 哲学

 アリストテレスの『ニコマコス倫理学』におけるエトスとエートスの区別に即してではなく、単にそこからヒントをもらったというに過ぎないが、風土と倫理を繋ぐ媒介項として、この両者の区別と関係を考えておくことは無駄ではないと思われる。
 エトスとエートスという言葉を使い続けると紛らわしいので、仮にそれぞれ習慣と性格に置きかえることにする。但し、両者が共通の起源を有しているということは忘れないようにして、という条件つきでのことである。
 習慣と一口に言っても、様々なレベルがある。大まかに分けるとしても、個人、家族、集団、地域、地方、階級、階層、社会、国家などを区別しなくてはならない。地域以上のレベルで複数の世代に渡って保持されている習慣は、むしろ慣習と呼んで区別したほうがいいだろう。
 ここでは私たちが生まれたときにはすでにその中にあるものという意味で、家族以上のレベルでの習慣を考えることにしよう。それが良いか悪いかを問う以前に、私たちは集合的習慣によって与えられたある慣性に支配された世界に生まれる。それに支配されない本性があるのかどうか。あるとしても、それが習慣とは無関係になんの制約もなしに発現するということは考えにくい。
 この集合的習慣がその集団に一定の性格を与える。そして、その集団的性格がその成員個々の性格も規定する。しかし、その規定の拘束力には様々な程度があるし、集団的性格が個々の成員の性格の多様性を妨げるとは限らない。
 この性格がただ単に一定の習慣的行動として発現するだけでは、エートスとは言えない。一回的な行動ももちろんエートスではない。集団のレベルであれ、その集団を代表するものとしての個人であれ、集団における自律的主体としての個人であれ、ある行動自体が価値観の表現となっている場合、あるいはその価値観に基づいたなんらかの選択の実行である場合、そしてそのことが当事者にそれとして自覚されておらず、かつその行動あるいは選択が一定期間安定的に反復されるときはじめて、それをエートスと呼ぶことができる。