内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

永遠に始源へと帰還しながら自己自身と出会うこと ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(九)

2017-01-23 19:58:55 | 読游摘録

 ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』の最終章の摘録を始めたときは、せいぜい四、五回、と思っていた。それが今日でもう九回になる。野球とは何の関係もないけれど、今日の記事を同書の摘録の最終回とする。それはもう十分だと考えてのことではなく、今の私にはこれ以上同書の思想の理解を深めるだけの準備ができていないから、研鑽を積んでからいずれまた戻って来ようという気持ちからである。
 最終章の終わりに近づくにつれ、ヴァイツゼッカーの語調は内省的になり、確信と自問が交錯するようになる。最後の二段落から引用する。

生殖、出産、成長、成熟、老年、死、さらには想起や予見などは、生きものが示す最も直観的で、反論理的で、従ってまさに最も始源に近い現象様式である。生命の消滅と生命の存続とはいわば生死を賭して同盟を誓っており、回帰 Wiederkunft とはこの同盟の永遠の象徴なのである。この回帰が終りを始めに結びつけ、始めを終りに結びつける。生成の無窮の転変の中で、永遠の回帰を示しつつ不変の始源が、存在の静止が現出する。(301頁)

 引用の最後に出てくる「不変の始源」と「存在の静止」、私にはこれらの概念は反生命的だと思えるのだが。ヴァイツゼッカーにとっても、探究の究極の目的は、やはりそのような概念によって把握されなくてはならないものなのだろうか。私はそれに打ち消し難い違和感を覚えてしまう。
 本書の最後の段落全文を引用する。

 もろもろのゲシュタルトの系列は、究極的にはやはり秩序をもつ。しかしそれは時間的前後関係の秩序に組込まれるのではなく、いろいろな行為や認識の系列、生の諸段階や世代の回帰の系列の中で秩序づけられる。生命の秩序はかように直線にではなく円環に比すべきものではあるけれども、かといってそれは円周線にではなく円の自己回帰に譬えられるべきでもある。ゲシュタルトは次々に継起する。しかしすべてのゲシュタルトのゲシュタルトはそれらのゲシュタルトの帰結ではなく、それらのゲシュタルトが永遠に始源へと帰還しながら自己自身と出会うことである。これが、ゲシュタルトクライスの名称を選んだ無意識の理由であった。ゲシュタルトクライスとは、いかなる生命現象の中にも現れている生の円環の叙述であり、存在を求めてつぶやかれた片言である。(同頁)

 究極的な秩序の探究、始源への止みがたいノスタルジー、自己回帰の希求、これらの志向はヴァイツゼッカーが西洋哲学史の伝統の正嫡であること示しているのかもしれない。しかし、始源への帰還は、その始源がすでにどこかにあるからそこに向かって発生する運動なのだろうか。むしろ、始源への回帰が自己回帰にほかならないような円環運動が〈同一なるもの〉を描き出すこと、それこそが生命の動的な生きたゲシュタルトクライスなのではないだろうか(この〈同一なるもの〉について、2016年1月25日の記事でドゥルーズの『ニーチェ』の中の永劫回帰論に言及したときに若干触れたことがある)。
 私は私で己のゲシュタルトクライスを叙述していきたいと思う。