内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「できる」は「したい」に限界づけられている ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(七)

2017-01-21 17:34:04 | 読游摘録

 転機において、「したい」と「ねばならぬ」の抗争の次に来るのが、「しうる」「しえない」「すべきである」「してもよい」などの発生論的条件である。
 例えば、極度の辛苦や疲労に打ちひしがれているとき、私たちは「もうこれ以上できない、無理」と溜息をつくだろう。しかし、この「できない」は、必ずしも厳密に客観的な判断ではない。ほんとうに限界に達しているかどうか、私たちはまだ疑ってみることができる。それでもやはり「できない」と私たちが言い張るとき、実のところは、「もうしたくない」というパトスが「できる」範囲を限定してしまっていないだろうか。
 もちろん本人はそのことに気づいてはない。言い換えるならば、私たちの「できる」範囲の限界についての「客観的な」判断は、実は、理屈抜きの「したい」というパトスによって限界づけられている。つまり、「できる」とは、実のところ、「できるようでありたい」ということなのだ。
 もちろん端から出来ない相談というのはある。例えば、十トントラックを一人で素手で持ち上げてみろとか、百メートルを五秒で走れとか、この種の要求は完全に人間の「しうる」範囲を超えており、いくら私たちが「したい」と思っても無理だ。これは端的に「できない」ことであって、誰もそれに文句は言えない。
 逆に、傍目から見て、そして一般的な条件からして、「できて当たり前」のことができない人を前にして、私たちは、「「したい」と思えばできるはずだ、できないのは、その「したい」という気持ちがお前に欠けているからだ、やる気を出せ」などと非難しがちではないだろうか。
 しかし、この「やる気のない」ような不活性状態は、本来私たちを生き生きとさせるはずの「したい」というパトスが、「できない」というロゴス的判断によって萎縮させられ、「したい」という気持ちがそもそも起こらない、あるいは起こりにくくなっているという倒錯状態に陥っていると見るべきではないのか。