内的自己対話-川の畔のささめごと

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増殖する概念ネットワーク ― ゲーテ・ヴァイツゼッカー・ウィトゲンシュタイン、そしてシモンドン・西田・三木

2017-01-10 23:19:39 | 読游摘録

 昨日日本から届いた和書の中にヴァイツゼッカー著『生命と主体 ゲシュタルトと時間/アノニュマ』(木村敏訳・註解、人文書院、1995年)がある。奥付を見ると、1996年7月25日初版第二刷とある。フランス留学直前になる。しかし、当時この本を買ったとは考えにくい。おそらく、博論のテーマを西田幾多郎の生命の哲学に決めた後、2000年以降に帰国した際に購入したのではなかったかと思う。実際、木村敏による註解の中に西田の名前が二回出てくる。それに、直接西田に言及していない箇所でも、木村の註解には明らかに西田哲学を念頭に置いて書かれた箇所が散見される。
 本書には「ゲシュタルトと時間」と「アノニュマ」の二編が収められているが、前者の冒頭にゲーテの『形態学序説』からの引用が置かれており、それが二編全体を貫く主題提示になっている。

 しかし、あらゆる形態Gestalt、なかでも特に有機体の形態を観察してみると、そこには、恒常的なもの、静止したもの、完結したものなどはひとつも見出せず、むしろすべてが運動のなかで揺らいでいるのがわかる。それゆえ、われわれのドイツ語が、生み出されたものと生み出されつつあるものとの両方に対して形成Bildungという語を用いているのも、十分に理由のあることなのである。
 したがって、形態学Morphologieというものを紹介しようとするならば、形態/ゲシュタルトという語を用いてはならないだろう、やむをえずこの語を用いる場合があっても、それは理念とか概念を、あるいは経験において一瞬間だけ固定されたものをさすときに限ってのことである。

 ゲーテのこの形態学の構想は、ヴァイツゼッカーのゲシュタルトクライスにとってのインスピレーションの源泉の一つであるばかりでなく、ウィトゲンシュタインが「フレイザー『金枝篇』への所見」で提示している諸事象の把握の方法と近いことは、Jena Lacoste, Goethe. Science et philosophie, PUF, coll. « Perspectives Germaniques », 1997 の指摘するところである(同書p.85。因みにこの本も何年か前に日本から持ち帰った本の一冊)。
 私は、このゲーテの形態学の構想をさらにシモンドンの information 論、西田の形の自己形成論、そして三木清の構想力の論理(Logik der Einbildungskraft)と連環させることで、自然の能産性、技術的発明、芸術的創造を総合的に把握する視角を開きたいと考えている。