内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

病気の二面性 ― ヴァイツゼッカー『生命と主体』(承前)

2017-01-12 23:58:40 | 読游摘録

 ヴァイツゼッカーは仏語にはほとんど訳されていない。1958年に出版されたミッシェル・フーコーとダニエル・ロシェによる『ゲシュタルトクライス』の仏訳(Le cycle de la structure, Desclée de Brouwer)は、もう長いこと絶版のままで、古本市場にもほとんど出回っていない。折に触れてサーチエンジンで探してみても、まったくヒットしない。かりに出たとしても、おそらく法外な値がつけれられることだろう。ヴァイツゼッカーの最晩年の未完の大著『パトゾフィー』のほうは、Jérôme Millon 社から2011年に仏訳が出版されており、これはヴァイツゼッカー再評価の機運の現れと見ることができる(同書については、2013年9月5日の記事で取り上げたことがある)。今後他の著作も仏訳されることを期待したい。ドイツ語がフランス語と同じように読めれば苦労はないわけだが、それは私にはもう無理だ。
 日本人にとって幸いなことに、主に木村敏の尽力によって、ヴァイツゼッカーはフランスでよりもよく知られ、よく読まれているようだ。とはいえ、『生命と主体』は版元品切れで、重版の予定はなさそうである。ただ古本は出回っているようで、それほど高くもない。

 さて、『生命と主体』を構成する二編のうちの後編「アノニュマ」は、緩やかに繋がり、相互に参照し合う四十の短章からなっているから、どこから読み始めてもいいかわりに、一つの短章を理解するには他の短章も読むことが自ずと求められるようになっている。
 例えば、「身体の基本的なありかたの二面性」と題された三十五番目の短章で取り上げられているからだとこころの二面性についての考察を理解するには、それまでの短章でさまざまな視角から論じられているゲシュタルトクライスをよく理解しておく必要がある。しかし、この短章だけをまず読んで、そこで立ち止まって私たち自身で何が問題なのかを考えることが、それに先立つ短章をより明確な問題設定とともに読むことを可能にする。そういう読み方も許すように全体が書かれている。
 その二頁に満たない短章の段落の一つを引用しよう。

 病気の二面性こそ病気なのだ。一度も健康になったことのないような人は人間ではないだろうし、一度も病気になったことのないような人も人間ではないだろう。病気は「そうあって当然ではないけれど、そうあらざるをえない」nicht sein zu sollen und doch sein zu müssen という両面をもっている。ここでは人間の超越が「病気はそれ自身を超越してひとつの意味をもつのに対して、それ自身を超越しない健康はいつまでたっても無意味である」という内容をもつことになる。健康が理想であることは間違いないとしても、そういうことが言えるのは人間が完全に健康ではないからなのだ。(180頁)

 この考察をさらに一歩先にすすめると、己を否定するものを完全に排除する「健康」を「理想」として追求することこそ、人間を間化するより深刻な病なのだと言うこともできるだろう。