内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

死、それは生命の優位を保証する最も確実な事実― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(四)

2017-01-18 19:50:46 | 読游摘録

 聳え立つ山脈の威容を目の前にして、私たちは崇高の念に打たれ、言葉を失うことがある。と同時に、それに対する自己の存在の頼りなさ、生き物の命のはかなさを思い、胸を締めつけられるような感情に襲われることもある。生命は、あたかも永遠の自存の形象であるかのような自然の威容を前にして、ただ己の移ろいやすさを嘆くことしかできないのだろうか。
 ヴァイツゼッカーは、しかし、実のところは永遠に不動ではない自然の威容に対して、ものに触れ動かされざるを得ない危うき生命の優位を確信している。そして、その優位を保証する「最も確実な事実は死である」と決然と主張する。

 生命の諸形像が転変するすばやさは、悠容たる連山の姿にてらしてみるとき、愕然とするほどのはかなさを如実に示している。だが反面、このような天変の中にあってなお生命が存続しているということ、このことが生命をして、連山でありながら場合によっては平らに整地されもしうるような一切のものの上位に立たしめる。このような生命の優位を保証する最も確実な事実は死である。しかし、死は一つの出来事ではない。死とは包括的な秩序であり、死の反照は一切の転変、一切の没落、一切の眠り、一切の別離の上に宿っている。死は、法則として、生あるものの体験の色調をも規定する――それは受苦 Leiden の色調である。(290頁)

 死は生の中の一つの出来事ではない。ある一つの生の最後に生じる出来事ではない。死は有限の生の一切を超え包んでいる。その一点において、生命は、死を知らぬ自然に対して優位に立つ。その死が私たちの生に与える基調は、受苦である。
 受苦は、生あるものの存在の欠陥の指標ではない。ロゴスによって克服されるべき不幸な状態ではない。ロゴスがそこにおいて働く「場所」にほかならない。ロゴスを超え包むこの「場所」がパトスである。この根本的な認識が、ヴァイツゼッカーをパトゾフィー(私はこれを受苦智学と訳したいのだが、その理由は2013年9月5日の記事で述べた)の構想へと導く。