内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

医学自身が病気になり、病気の原因になるとき ― ヴァイツゼッカー『生命と主体』(承前)

2017-01-13 15:33:53 | 読游摘録

 ヴァイツゼッカー『生命と主体』についての最初の記事をアップしたときは一回だけのつもりだったのだが、今回同書を読み直しているうちにもう少し紹介したくなった。それは、しかし、上から目線で「これくらい知っておかないとね」というような不遜な気持ちからではなく、読み直しながら私自身しばしば考え込んでしまったからで、「これって、とっても大事なことですよねぇ。どう思われます?」と拙ブログをお読みくださっている方々に問い掛けたいという気持ちからである。
 昨日の記事で取り上げた短章「身体の基本的なありかたの二面性」の次の短章は、前章を受ける形で次のように始まる。

 こんなことを言うと、病気のありかたは二つあるいはそれ以上の種類があるかのように思えるだろうが、それは見かけだけのことで、間違いである。この間違いの起こった瞬間に医学自身が病気になり、病気の原因となる。この動きは歴史の至るところで起こってきたし、その歴史上の位置に従ってそれぞれ独自のかたちで演じられてきた。(181頁)

 ここからゲシュタルトクライス概念に基づいて、心身二元論的病因論批判が展開される。病気の原因を心身のいずれかの面に排他的に帰することによって、偽問題が発生する。偽問題にありうる解答は偽の解答でしかない。

凍結してしまった二つのブロックが互いに本当の意味で(われわれの言いかたではモナド的に)出会いうるためには、それぞれすべての部分どうしがそこで出会って、完全に解け合ってしまわねばならない。それによってはじめて「部分」とは何であるかがわかるのだ。(182頁)

 この引用の中で言われているそれぞれの部分どうしが出会う「そこ」、それがゲシュタルトクライスである。病気の治療は、それぞれのゲシュタルトクライスにおいてなされるべきであり、病因を還元主義的に身体あるいは精神に一元的に帰し、それに対して普遍的な処方がありうるかのように対処するのは、ゲシュタルトクライス概念に基づくならば、治療として根本的に誤っている。

だから、病気が二つの面をもっているのではなく、二面性が病気なのだ。そしてこの病気に気づいてこれを探り出し、追求し、取り押さえるという仕事は、個別において行われる以外なく、全体について行われるのではない。(同頁)

 心身二元論を哲学的に批判し解体するだけでは、医学的には何の問題解決にもなっていない。私たちの生はなぜ二面性に引き裂かれざるをえないのか。その葛藤を現実世界の中で一つの全体として個別的に(つまりモナド的に)追求し、それぞれのゲシュタルトクライスに応じて治療する以外に真の治癒はありえない。そうワイツゼッカーは言いたいのだろう、と私は考える。

世界は病気として告知されるが、これはモナド的に表象すべきことである。なぜならモナドは数的な固定を拒み、場所的な多重化という表象を求めるのだから。(183頁)

 同短章はこう結ばれている。ここに出て来るモナドの「場所的な多重化」については第三十章で説明されている。明日の記事ではそこを木村敏の註解も参照しながら読んでみよう。