「最後のお願い」の動員力云々が古くさい、と思ってしまう。コアな支持者の自己満足に見えるのだけど。>RT
山本太郎って、箕面自由学園なんやね。中退らしいけど。
偏向教育とか軍国教育とかの問題よりも「学校で習ったことをほとんどの人は覚えていない」ことのほうがよほど大きな問題だと思う。教育が残すのは「教育によって確定された序列」だけで教育の内容はほとんど残らない。
「落語というのは世の中のウラのウラをえぐっていく芸」(志ん生)。規範が存在しないと、「それはタテマエに過ぎない」と裏を突く芸は成り立ちづらい。
応援していた候補者が落選してしまった、という方、終わったとか絶望とか叫ぶ前に(立場とお財布が許すなら)そのひとが「次」まで活動を続けられるように政治献金とかしてみるといいと思います。何度か見たけど落選議員の生活はやっぱ過酷。そしてたぶん「次」はだいぶ先。
ワタミの渡邊さんが、当確出るのが深夜になった件について
「すいません、遅くまで残させてしまって」
って言ってるの、この人にしては中々小粋なギャグで感心した
ハローワークで偉そうにしている求職者。おっさん。まあ、卑屈になる必要はないのだけれど、いくら昔高い地位に付いていたか知らんが、採用側としてそんな奴を採用する気にはなれない、と想像できないのかねえ。
「お芝居って一人でやるもんじゃないから、相手から出てくるものが偽物だったら僕も偽物しか出せなかったかも知れません。それが本物だったから、僕もそういうものが出せた(ケレン味を出さない、「お芝居」をしない)んじゃないかと思う」。一人芝居たる落語での、登場人物間の呼応関係。
何事も「本当にそうなのか?」と問えば、そうでもなくなるのは自然の理。問うこと自体が間違っている。
「高倉狐」演るなら、皮肉なネタで「水屋の富」なんかも良いかも知れない。上方であんまり演らないけど。
悪態の洗練化は江戸の知恵。人が密集して暮らすので、当然、人と人の間に感情的な摩擦が多くなる。悪感情を上手く発散できるよう、レトリックに工夫を凝らし、どこか「遊び」のある悪態を愛用した。
実体経済の中で資金需要がないところに、さらにこれも使えと言って来年の年末までに倍のお金を流し込むというのだから、それはもう向かうところは株と土地しかない。さて、どうなるか?という実験中。
民間設備投資は建物と機械に分かれ、その指標は改善していない。うーん、第三次産業化が進展している状況で、この第二次産業メインの指標をどこまで重視するのか、はあるわなあ。人が生産財であると考えれば、総給与額などをもっと重要視していく手はあるかも知れない。
平均20から30ヘクタールにする、と言ったところで、小さな田んぼが飛び地になっていたり田んぼに段差があったりして、1枚の大きな田んぼにはできない。一つ小さな田んぼに行って、次に軽自動車で10分かけて他の田んぼに行って、合わせて20ヘクタールだという「集約」。違う方策があろうに。
「生産者が加工までやって製品を販売する」よりも、「利用する側が食材に関心を持って自分で作り始める」流れ。需要側から始める。
TPPを外務省主導でなく、経産省の通商部門主導でやる。アメリカも通商代表部が担当。外務省主導でやると、外交や安保上の考慮が強くなってしまう。
満州事変から終戦までの間に日本、特に軍部がしたことは正しかったか。もし正しかったとすると、正しいことならもう一度やらないといけない、今度は勝たなければいけない、という話になる。
中選挙区制では「地盤」「看板」「カバン」が必要だと言われたが、小選挙区でこの3つを党が代行している。そのため党とのしがらみがなく、それを乗り越えてゆく原体験が少ないので政治家が劣化している。
「一時代、一民族の生き方が一つの型に結集する処に一つの文化が生まれる。その同じものが個人に現れる時、人はそれを教養と称する」。