城郭探訪

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物生(むし)山城 近江国(彦根)

2014年05月11日 | 戦国山城

 織田信長の佐和山城攻め時の陣城

 お城のデータ

所在地:彦根市宮田町物生山 

現在の状態 :山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・竪堀・土橋

区 分::山城(砦) 192m

築城期:室町期 浅井氏 改築:戦国期 織田氏

築城者:室町期)浅井氏、戦国期)織田の臣 市橋氏改築

城 主:(戦国期)市橋九郎右衛門

戦  い:元亀元年(1570)  〇織田信長軍 VS  ✖浅井長政

訪城日;2014.5.9

お城の概要

物生山城は、佐和山山塊の北端部に位置し、彦根市宮田町物生山の西背後の山上に築かれている。

頂部に主郭を置き、南東、西、北の三方に伸びる尾根筋に各々数段の郭を配した縄張りとなっている。
主郭は、多角形状の台状地で、東と西で1.8m程の段差があり西が低く、南と北側の下方には犬走りを伴っている。主郭の西方が尾根続きとなり、3条の堀切を設け厳重に防備を固めている。内堀切と中堀切の間に10m×7mの方形状の腰郭があり、その南部は塹壕状になっている。主郭の南東少し下方には腰郭があり、そこから急激に20m程降った尾根上に微かな土塁痕の残る50m×10mの細長い郭が延びている。主郭から北に降る尾根上には、5段にわたって削平され、最下段は4.5m幅で帯状となっており、その北西端に設けたれた堀切には2本の土橋があり、土橋の間が小さな貯水池のようになっている。
現在に残る遺構からは、佐和山城側に土塁や塹壕、堀切などの施設が構えられており、信長公記に云う「北の山」=物生山城。

 

 歴  史

ここに城跡があるとの記録は見当たらず、詳細は不明であるが、

信長公記に

元亀元年(1570)姉川合戦で織田信長に敗れた浅井長政方が小谷城と佐和山城に分かれ籠城した際、信長は小谷城に対し秀吉を配し、佐和山城に対しては、鹿垣を結ばせ、東の百々屋敷(丸山城=丹羽砦)に丹羽五郎左衛門、北の山(物生山砦)に市橋九郎右衛門、南の山(里根山砦)に水野下野、西彦根山(=金亀山か(尾末山)砦に河尻与兵衛を布陣させ、四方より取り詰めさせたとの記録が残る。

信長の佐和山包囲網である。

 信長公記に記された佐和山城の付城である「北の山」が、この物生山城ではなかったかと考えられている。
しかし、建久年間(1190~99)の佐保時綱以来の長い佐和山城の歴史から、佐和山の守備の一点と考える必要も指摘されている。

 物生山城の伝承や記録は無いが、その存在については、
(1)地元領主が築城 (2)佐和山城の出城として築城 (3)織田信長の佐和山城攻め時の陣城 等と考えられている。

 信長公記には佐和山城に対する付城について以下の記述がある。
----------------------------  【信長公記】 (巻三 元亀元庚午)
「木下籐吉郎定番として横山に入置かれ、夫より佐和山の城、磯野丹波守楯籠り相□候キ、直に信長公。七月□日、佐和山へ御馬を寄せられ、取詰め、鹿垣結はされ、東百々屋敷御取出仰付けられ、丹波五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取詰めさせ、諸口の通路をとめ。七月六日、御馬廻ばかり召列れられ御上洛。」
----------------------------
 上記、記述の「北の山」が、この物生山

登城口は山の東麓、宮田町物生山の村落のちょうど真ん中あたりの、墓地群に向かう道を途中で左に迂回したところにある。山道は鉄塔メンテナンス用なのか、比較的整備されていて迷う事はない。麓から山を見上げたら、山頂らしき部分は佐和山主曲輪到達までに合計8ヶ所程度あるが、物生山城域と見られる部分は登り始めた一番最初の高点で、主曲輪部分には現在TVアンテナが建っている。

   全体の形状はT字型をしていて、東西のほぼ直線の中心に主曲輪があり、そこから北に下るように5段に削平されている。遺構の中で一番の見所は、主曲輪から西に向かった所にある3つの堀切でそれぞれに明確な土橋をもつ。

 物生山城から佐和山城にかけては尾根づたいにハイキングコースとなっていて、どこまでが佐和山城域なのか定かではなく、冒険好きなお城ファンにとっては探索しがいのある山々であるが、コースから外れず進むだけでも制覇するには相当な時間を要する。 

物生山城・・・遠望

路上駐車可(位置)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、わたしの町の戦国(彦根教育委員会)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


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