城郭探訪

yamaziro

菩提寺城 近江国(甲賀・甲西)

2013年06月13日 | 平城

参考資料:菩提寺歴史散歩

菩提寺まちづくりセンターの向かいが城址。

菩提寺保育園も城域のようで、高台(切岸?)のように見えます。

 遠景

お城のデータ

所在地:湖南市菩提寺(旧甲賀群甲西町菩提寺) map:http://yahoo.jp/8hMqfS

区 分:平城

遺 構:土塁

築城期:室町期

築城者:青木筑後守

目標地:菩提寺幼稚園・湖南市菩提寺まちづくりセンター

訪城日:2013.6.13

お城の概要

図は、損壊の余り進んでいなかった大正期のようすを古老の記憶を頼りに描いたものです。(参考資料:菩提寺歴史散歩)

 提寺城は菩提寺保育園のある丘陵に谷城より遅れくれること20年後の長享年間(1487~1489)に青木筑後守によって築かれ、古地図では、「大政所 目代屋敷(おおまんどころ もくだいやしき)と描かれた場所。

この菩提寺城の西方約100mの地には、「青木孫九郎屋敷」呼ばれた「青木館」があり、ほぼ同じ運命をたどった「青木館」は、県道22号によって分割され、その遺構は確認できません。

八王子神社の東の山に城跡遺構が詰め城カ!西側は近年、住宅開発でビューポイントに!

龍王山(菩提寺山)・・和田神社に谷城(上城・下城)が有ります。

近年、住宅開発で城郭遺跡のわずか残すのみ!この下は平成の切岸!

八王子神社(青木の鎮守社)

八王子神社(遠景)

阿弥陀院(青木の菩提寺)

 壁画:::菩提寺古文章・絵図 (菩提寺新町)

石部城の攻防 

歴 史

・・・・・信長公記 三巻10月20日の条・・・・・

 江南では六角承禎親子がふたたび起こり、甲賀口の三雲氏居城・菩提寺城まで寄せてきたが、人数が少なく戦の体にならなかった。また江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路を閉ざそうとしたが、百姓のことゆえ人数は多くとも脅威にはならなかった。云々・・・・

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将軍足利義昭が追放され、さらに江北の浅井氏、越前の朝倉氏が滅ぶと、いよいよ信長の六角征伐は本格的になってきたのであった。

 一方、たび重なる六角氏のゲリラ戦法は。次第とその戦力が低下し、先述のように、元亀元年の野洲川合戦や天正二年の石部城籠城戦が、六角氏の戦国武将としての意地をみせる最後の戦闘となったのであった。なかでも石部城をめぐる攻防戦は、六角軍の最後の力量をみるにふさわしい合戦となった模様である。

 石部城は、甲賀武士青木石部氏の拠城で(後述)、この城を六月承禎は本拠地とし、信長の武将佐久間信盛を迎え討つことになったのである。『山中文書』年末詳十二月二十四日付「六角承禎書状」(『甲賀郡志』下巻)をみるとその戦いぶりを知ることができる。

 織田信長に対し確執に及ぶ、越前朝倉・江北浅井没落の後、佐久間父子(信盛・信栄)大軍を帥い、石部館を攻む、菩提寺城を抜き、石部において堅固に相构め畢んぬ、其方儀、軍忠を抽んで、取林寺熊之助の首を撃ち、その時他に異なる感状を与う、九月朔日より翌年四月十三日に達し籠城す、寄手柵十一ヶ所の附城、(山中)長俊等柵を破り、忍び出て敵を討つこと四度なり、退城の時、供奉して信楽に至る、敵これを躡うと雖も、追い払い事故なく信楽に着く、右の赴(趣)、今に至りて失念す、今我齢八十一に及ぶ、残命久しうべからず、且床に臥す、然れども当来後世の契約を成す故、改めてこれを書く、判形を加え筆跡其甚し、高定これを認むるの条、細に能わず候、恐々謹言、

  極月に廿四日                              (六角)承 禎 (花押)

 山中山城守殿 参

 菩提寺城を攻略し、石部城を包囲した佐久間軍は、封柵で城内を拘禁し、六角軍殲滅を計った。ところが、城内では山中長俊や石部家清など六角氏とともに闘い抜いてきた甲賀武士たちが、十一ヶ所の封柵を破って敵陣に反撃を加えたりした。六角軍がゲリラ戦術で、敵を威嚇したのであった。しかし、ついに籠城をあきらめ、信楽に脱出するに至った。六角軍の敗退であった。

 なお、ここにこの合戦時にだされたと思われる信長軍の一通の黒印状がある。(『山中文書』年末詳三月五日付)。大変興味深い内容を持つものである。

書中に三色見来候、祝着せし候、毎々懇切浅からず候、仍て甲賀郡内の者共の礼、其意を得候、石部表の執出(砦)の儀に付、各精を入れ候段、弥由(油)断なく候て、落居たるべく候の条、堅く申し付くべく候、猶、來問を期し候、謹言、

  三月五日                                    信 長 (黒印)

   佐久間甚九郎殿

 内容からみて、石部城が佐久間軍に攻められ、承禎が信楽に逃避した天正二年四月の直前に発給されたものと思われる。六角氏の滅亡寸前に、信長は甲賀武士たちが自軍になびきつつあることを意識して、佐久間信栄に油断なきよう差配することを命じているのである。はたして承禎に付き従った甲賀武士がいか程いたかは不明であるが、少なくともこの文章から知られることは、甲賀郡内の地侍たちが信長に帰順していることである。この合戦において信長は、ほぼ終焉を迎えたといってよかったのである。

青木正信が居城したと伝わります。 

亀元年(1570年)に六角義賢(承禎)がここに立て篭もったが織田信長に破れ降伏したと伝わります。(その後、承禎は石部城に監禁されましたが、天正二年(1574年)に逃亡したとされます)

真明寺を貞享菩提寺城は、このころ再興したのは四世俊応であるが、この僧は正福寺村(甲西町)の青木庄助の子であるが、正福寺にもまた青木氏がいた。『寛政重修諸家譜』(巻665)には「先祖近江国甲賀郡正福寺の人にして、もとは上山を称す。美作守家がとき、同国青木の庄に住せしより称号とす」とあり、安の項の下に「近江国正福寺の城に住し、佐々木承禎が旗下なり。そのゝち織田右京(信長)に属し、右府生害のゝち青木左京進某に焼討せられ、つゐに所領を奪わる(下略)」と註記されている。

 正福寺の青木氏も佐々木の幕下であった。菩提寺城、丸岡城(甲西町柑子袋)をまもっていたのも青木氏であった。このように青木氏は六角配下の土豪として当地方に勢力をもち、甲賀口を扼していたが、佐久間信盛らの来攻によって、菩提寺の青木氏、石部平野の青木氏も居城を捨て敗走したのである。

元禄11年(1698)に旗本内藤十治良(じゅうじろう)の采地(領地)となって陣屋が建てられ、明治以降には、学校用地や宅地などになり消失してしまい詳細は不明

参考資料;淡海の城、滋賀県中世城郭分布調査、滋賀の城、石部南小学校HP

      本日も訪問、ありがとうございました。


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