考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

ロボット作りと教育

2005年09月25日 | 教育
 養老先生の対談集「マンガをもっと読みなさい-日本人の脳はすばらしい-」(晃洋書房)を読んでいる。以前も何かで読んだことではあるが、これって、教育と同じことじゃないかと思った。
「ロボットをつくっていくと、ある意味で人間が良く見えてきます。二足歩行を人間がどういうふうにやっているかということは、ロボットをつくる過程で細かくわかってきたんです。」(142ページ)

 教育や子育ての過程で、同じことが言えるんじゃないのかな。「子育ては自分育て」なんて言われたりするのも、自分がわかり、子供を通して、その子供の個体そのものだけでなく、子供と接することで学び得る素朴かつ激烈な感動から、何か人間一般がわかってくるという意味があると思う。

 人間が生きているというのは、究極は「人間とはなんぞや?」という問に、一人一人が自分の人生を懸けて、答えや答えらしきものを探し出すことじゃないかと思う。だから、人の生き方は様々あって良いわけだし、正解は一つだけでない。月並みだけれど。

 ただ、決して一面的ではないから「わかりやすい」ものではないので、絶対的でない不安定さを伴う。だから、どうしても幾ばくかの「悲しみ」が付きまとうと思う。「わからない」のもその一つだ。

 子供だって、人生に一歩を踏み出し始めた人間である。もちろん、生育に応じてのことだが、少しずつ「もの」を考えさせ、理解させていかないと、その子は人間らしい人間に育たないだろう。

 この間、生徒に言って、うけた。「生きてるだけなら、ゴキブリだって何億年も生きてるんだ~。君らはゴキブリじゃない。人間だ~。だったら、人間らしくしろ。」
 近頃、「勉強が役に立つ、立たない」が言われるが、この視点で言えば、どの程度ゴキブリから人間になれるか、の目標設定の違いにすぎないと私は思っている。

 ただ、こういうことを言うと、もの凄く嫌がる人がいる。どうしてだろう? そのわけを考えたこと、まだ、ないけど。

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