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一斉授業と「聞く力」(少々修正)

2009年03月17日 | 教育
 本屋を覗くと、社会人対象のハウツー本にプレゼンテーションが多い。これはそれりに以前からよく見かける。しかし、その反面、人の話を聞く重要性を説く成功者の本を見かける。
 とても興味深い。
 パラパラ立ち読みしかしたことないけど、この類の本は、「聞く」ことは通常受動的であるとされているが、そうでなく、非常に能動的な仕事であると言ってると思う。時に「生徒の話を聞く」でも何でも当てはまろう。一見受動的な「聞くこと」に逆に能動的な意味を見出していることが非常に興味深い。

 さてここで、近頃の教育を振り返ろう。生徒を見る分に、子供の時からプレゼンテーション能力の育成が図られてきたように思う。人前で物怖じする子が少なくなった。小学生の時から発表の機会を多く体験しているのだと思う。ちょっと大袈裟かもしれないが隔世の感を覚えるほどだ。それで、授業も「絶対評価」なるもののせいで「意欲」の評価が加わり、手を挙げた回数で成績が変わる現実がある。手を挙げるのもレベルの低い一種のプレゼンというわけだ。一方、授業は小人数、個別学習が成果が上がるとして脚光を浴びている。先生の講義を聴くだけの講義形式はつまらない、子供の能力に即していない、たぶん、そのような批判から個別指導や小人数授業が良いとされているのだろう。個別指導やティームティーチング、小人数授業であれば、質問をしやすいから、わからないところで躓くことが減り、学習能力が高まるという考えだ。
 まあ、中学でも事実上は一斉授業だろうが、原理的には一斉授業に反する価値観で教育を受けて子供は高校に入学してくる。ところが高校は相変わらず一斉授業の価値観で動いている。(20人規模の少人数指導も(予算の許す限り?)しばしば行われているが。)それで、生徒は、「つまらん」という反応を示す。「面白い授業だと聞く気がするがつまらない授業は聞く気がしない」と明言する生徒も多い。「役に立つなら聞くが役に立たない話は聞く意味がない」と言う生徒もいる。それで、「面白い」「役に立つ」の基準は一人一人異なる。ある先生の授業をある生徒は面白いと言うが、別の生徒はつまらないと言う。ある生徒はある授業を役に立つと考え、他の生徒は、「受験科目ではないから役に立たない」と言う。長年教員をしていて思うのは、ごくごくふつーの教員は、全ての生徒に「面白い」「役に立つ」と感じさせる授業はできないということだ。
 偏差値40のやる気のある生徒とやる気のない生徒、偏差値70の何でも知りたい、考えたいという生徒と同じ偏差値70でも受験のことだけを考えている生徒の全てを満足させるのは、まあ、至極ふつーの教員の私は無理である。(基本的に自分を基準に話している。)「自分にとって都合の良い先生が良い先生だ」という判断基準の生徒集団では、自分の受験科目でない授業は何をしようと注意しない先生の授業が良い授業で良い先生ということになるし、自分が成長したいと思っている生徒にとって試験問題を教えてくれる先生は良い先生と言えなかったりする。判断基準は実にさまざまだ。

 何だか話がヨコに逸れた気もするが、私が問題にしたいのは、生徒の「聞く力」である。
 結論を言うと、「一斉授業」というのは、先生の一方的な講義を生徒が聴く形式だが、これはこれで生徒に「聞く力」を結構身に付けさせていたのではないかということだ。

 その時は「つまらない」と思っても、その時は「わからない」と思っても、ちょっと我慢をして聞いていると、やがてわかる。「わからない」と思った瞬間に「先生、わかりません。もう一度説明してください。」と声を上げることが常に必ずしも良いと言えないだろう、ということだ。「わかりません。教えてください」は、「わかる」ということを実は甘く見ていると言える。蛇足ながら、「わかる」とは、そう簡単にできることではないのである。「ちょっと待て、最後まで聞け。自らが学べ」をいちいち言葉で述べずに教えることができるのが、一斉授業において授業を聞かせることだと言うことだ。

 もちろん、下手くそなマズイ授業がないと言わない。私だって、ちょっと曖昧な表現で説明をしたばかりに授業後にそれなりに数の生徒が教卓に来て、口々に同じ箇所について「先生、質問があります」と言われたことがある。「しまった!」と思ったことも若いときには実に多い。(年取ってからだって、ないとは言わない。)ふつーの教員の授業とは「可もなく不可もなし」ではなく「可もあれば不可もある」ものであろう。

 それでも、こういった授業であってさえ、生徒は授業本来の直接的な知識や技能習得と異なる能力を身に付けることが出来るのである。その授業が目当てとする知識技能以外の能力である。
 説明すると、「学ぶ」というのは、(以前から時々書いているが、)2通りある。直接学ぶ知識技能の習得と学ぶ能力の育成の2つである。それで、小人数授業や個別指導は前者の習得を目的としている。一般に言われる「学力低下」に関わる問題も、第一に、知識技能の習得が十分でないことを問題にしていて、「学ぶ力の低下」そのものを一般の先生が問題にすることは少ない。(だって、目に見えないもの。苅谷さんとか内田先生辺りが言っている気がするけど。)それで、一斉授業が目的としているのが、知識技能もさることながら、実は「学ぶ力」の育成だったのではないかということだ。

 これは、受動的な存在に思われる生徒自身が、いかに能動的に聞くかどうかで、授業の濃さが大きく変貌することを意味する。具体的には、どんな授業であっても「かったるいなぁ」と思って聞けばかったるい授業にしかならない。「わからん」「つまらん」という受動的な態度は、決して学ぶことに繋がらないということである。逆に、ときに、先生のあら探しをすることもあろうが、あら探しをするにはそれだけの力量が必要で、熱心に聞かなければ出来ることではない。生徒の方で「まあ、この先生に期待できるのはこの程度の授業だからね」と思うこともあるだろう。それでも、その授業を自分で密度あるモノにしていく生徒の能力は能動的でなければならない。時に、聞いていていらいらすることもあると思うが(←自分の高校生の頃の話でもあるし、自分が教員になってから生徒を見て、きっとそうだろうなぁと感じる場合もある。)、授業は如何なる授業であっても、生徒にとっては初めて学ぶことばかりだから、能動的に授業を聞いて学ぶことは多々あるはずのものである。事前の予習の重要性を感じることもその一つである。「授業がわからないから予習をしっかりしよう」と予習をすることで、上手な授業を聞いてわかったつもりで終わるよりずっと良い結果を出すこともある。
 授業内容は常に「これから学ぶこと」である。既習の内容であっても、全てを理解し、応用できるまで能力を高めている生徒はまずいない。ならば、どんな授業も積極的に学ぶべきものを学び取るという姿勢が「聞く」という能力の本来の目的になろう。ただ単に音声を耳から取り入れることが「聞く」ことではない。この力は、意外に、一方通行だからこそ鍛えられる能力、双方向でないからこそ鍛えられることはないか。
 「一方通行はつまらない」に一理あるのはわかるが、それでも、双方向でなければ学べない能力しかないのだとしたら、ちょいとばかり情けない気もする。一方通行で、自分が理解できるところと理解できないところをまずしっかりと区別し、そのあとで、お温習いをし、同じ授業を聞いたクラスメートにちょっと尋ねて理解できることも出てくるだろうし、それでも理解できないこともあるだろう。その違いがあって初めて先生に質問に来る、という能力養成の方法があってしかるべきだということだ。それで、最初自分がわからなかったのが、単なる聞き損ないだったのか、何かの間違いだったのか、先生の間違いだったのか、その後の先生の話の中に関連するヒントがなかったか。さまざまな要因が考えられる。「授業でわからないこと」の全ては一つ一つ異なり、対処法も異なるわけである。これを身を以て知るのも世の中に出たとき、なかなか役に立つのではないか。
 世の中は、双方向に見えながら実際のところ一方通行のことが多い。こちらが求めても、こちらが「客」でない限り、双方向的に「答え」てくれる人はいない。答えてもらえるのは、実にこちらが「客」の場合だということだ。おっと、ここにも消費者mindedの経済市場主義が入り込んでいたのだ。書くまで気が付かなかったが、ふ~む、、そうか、「双方向授業」とは、実に、市場経済主義の顧客消費者養成のための授業形態だったということになりそうである。(「双方向」は、生産的な作業に見えながら、実は違ってたということだね。へぇ~、意外。誤解されるといけないから一応念のため。「売る側」が「聞く力」を持つとき、「双方向」になるということだ。それで、「客」は「双方向」と言いながら「聞いてもらう側」にいる。だから、基本的に「聞く力」は求められない。)

 というわけで、小人数授業や個別学習重視の傾向を鑑み、先生が講義をする形式の一斉授業に対する批判を耳にすると、「それだけではないだろうに」と私は思う。
 先生だって、それなりに「どの生徒にもわかるように」授業をやっているのだから、生徒だって「口を開けて待っているから放り込んでくれ、旨かったら喰ってやって良いぞ」という態度で「つまらん」「おもしろくない」「役に立たない」というのもいかがなモノか。それでは、「聞く力」を養えなくなるよ。それではキミたちに人生、困ったことにならないかい? 「聞く力」を自ら養えないというのは、「消費者」「顧客」の立場にしか身を置けなくなることになりかねない。
 それでいいの??

 「聞く」「読む」は情報収集である。いかに効果的に行うかは、自分の目の前にあるものにいかに真摯に受け止め対処していくか、周りをよく見て状況を鑑みることでより良いものを求めていくかしかない。この能力の育成は、一斉授業だから可能になる能力であろう。それを形式上からただの上意下達だと思っていたのでは、猫に小判になってしまいそうだ。生きていく上で、極めて重要な真の「聞く力」に繋がることはないだろう。
 授業であれ何であれ、新しい場所(授業とは常に「新しい場所」である。)で人間に出来るのは、自分が存するところで耳を澄ませ、目を見開いて、五感を研ぎ澄ませて今いる場所がどういうところかを確認することが、まずは最も大事なことだろう。その能力さえあれば、如何なる場にあっても、何とかやっていく方法を見付ける端緒を得ることができるものであろう。内田先生は、(言葉そのものは違うと思うけど、)人が生きている状況は「知らないうちにルールを知らないプレーに参加させれている」と言っているけど、至言である。だから、「聞く力」が大事なのだ。
 あ、念のためだけど、ここで言っている「聞く力」は、「聞き取る力」であって、人にモノを尋ねる意味での聞くではないからね。

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