考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

どうしたら出来るようになるか

2009年10月25日 | 教育
 勉強をしているのに伸びない、と言ってくる生徒が増えた。長文が読めないと言う。じゃあ、1段落からなる十数行の英文は読めるのかというと、これも読めない。十数行が読めなくて長文が読めるようになるわけがない、と私は思うのだが、本人にしてみれば、十数行を読んだところで長文が読めるようになるわけがない、と思い込んでいるようだ。十数行が読めないから、長文が読めないことに気がつかない。同じレベルの英文なら、長い方が難しいに決まっている。読解の体力というものがある。(何十ページもの長さはまた別物になることもあろうが。)

 彼らは毎日の勉強で「時間内に読む」という方法を取ってきているようだ。(近頃の問題集などは、制限時間が書いてあったりする。)で、実は、私には毎日の勉強で特定の文章を時間内に読みきらなければならない重要性がわからない。センター試験は確かに時間との勝負になるが、だからといって、普段の勉強までそれに合わせることはないと思う。意味を取り、辞書を引く。文脈を確認する。訳したり要約をしたリする。出来ないところ、意味がわからないところがきっとあるはずだ。そこは解読する。内容読解につとめる。文章で表現されているからには何かの主張があるはずだ。これらの全ては、それなりに時間をかけないと出来ないだろう。速さは全くの別物である。最初から時間を気にしていては本質を見失うだろう。
 それとも、私がそのように思うのは、自分が読むのが速かったからなのか。今のセンターは知らないが、試験時間内に問題をやりきれなかったことはあまりない。時間をかけてする勉強とちゃっちゃと問題を解くことを器用にやり分けていたのかなぁ。気楽な気持ちで試験を受けたことはない。テンションを上げて、集中して、がんがんに脳味噌を使った。とにかく、単語に弱かったから、集中力をあげないと全く読めない。未知語を未知のまま保持し未知語同士で、これとあれはほぼ同じ意味だろう、対立する概念だろう、などと推測しながらその記憶もさらに保持して流れをつかむがごとくどんどん読む。キーワードに関わる語を含めて10語も未知語があると、もう、ホントに大変だった。それで大抵、未知語は10語で済まなかった。速く読まないと記憶が保持できなかったのかもしれない。
 普段の勉強で単語熟語の復習は重要だろう。使わないと、すぐに忘れる。彼らは、2,3回やるとそれで終わるようだ。ちゃんと覚えることをしていないと思う。読む文章に出てくる単語などは、ほとんどが今頃には既出である。それがわからないのは、これまでの勉強が出来ていないと言うことだ。じゃあ、どうしたらいいのか。単純である。今出てきたことをアタマにたたき込むのが最善である。

 もう一つ彼らに共通しているのは、わからないと諦めることだ。「わかりません」で終わる。大事なのは、「わからなかったらどうするか」である。思い出すことの重要性も忘れている。単語なら、ほとんどが既出語である。思い出す努力が必要だろうに、たぶん、そのときの重要語ではないと言う理由で思い出さない。これで語彙が増えることはない。再任と再生が全く異なる思考であることに気がつかない。文構造がわからないなら、S+Vを捕まえる。その方法は教えているのに覚えていない。目の前にある文がわかりさえすれば、自分はわかるから、「わからないときどうするか」に興味が持てないのだろう。しかし、今後必ず「わからない文」に遭遇するものだ。だったら、そのときどうするかの方法をわかる文で復習して「わからないときどうするか」の勉強をすれば良いと思うのに、そこには思い至らない。あくまで目の前にあるものを理解することだけが勉強の目的になっている。応用力に繋がらないのわけである。読解問題なら、答えは常に本文にある。国語の現代文では、答えは必ず書いてある、と言う。英語だって同じだ。探せ。

 まだある。仮説を立てて考えることをしない。読解問題の答えにせよ、段落のトピックセンテンスを探すにも、わからないなら、たとえば最初の文がトピックセンテンスと仮説をたてて、それで、スムーズに意味が通るかどうか試しにやってみるというようなことをしない。上手くいけばその文だろうし、上手くいかなかったら違うということだ。また考え直せばよい。

 勉強なんて、常に試行錯誤である。他に何が出来るというのだろう。私はわからない。
 

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