もう、何だか変梃な話になってきた。高校在学中から試験をしたら、ますます毎日の学習が「目先の試験対策」になってきそうだ。試験の方法も、どうせマーク問題だろうから、学力もへったくれもなかろう。何かしようとすると、すぐに「公平性」を問題にするのも問題だ。
生徒はよく聞いてくる。「私のこの回答は、〇ですか、×ですか? 何点ですか?」
これを言ったら、勉強はできるようにならない。採点基準は、他のメンバーがどんな回答をするかでいくらでも変わる。そんなものだ。試験は公平性を保つために行うものではなく、「差をつける」ことが目的だから、最初から基準が決まるわけがない。となると、この問題を回避するには、すでに解答を与えたマーク試験方式になる。どんなに醜い答えであっても、他の選択肢に明らかな間違いがあったらそれが答えとなって公平性が保たれる。だれからも文句は出ない。問題作成者にとって最大の問題は、文句が出ることだろうから。だから、今度の試験もマーク試験のはずだ。(設備はすでに整っているし。)
ここで張り切るのが、偏差値55程度の指導者集団であろう。(と、イヤらしい書き方をしてしまうが。)
でまた、基準を鮮明にするためのcan-doリストが「到達度」とされ、英語だったら細切れの知識が目的の学習に堕す。そんなで知の根幹に到達できる生徒が育つはずはなかろう。
生徒はよく聞いてくる。「私のこの回答は、〇ですか、×ですか? 何点ですか?」
これを言ったら、勉強はできるようにならない。採点基準は、他のメンバーがどんな回答をするかでいくらでも変わる。そんなものだ。試験は公平性を保つために行うものではなく、「差をつける」ことが目的だから、最初から基準が決まるわけがない。となると、この問題を回避するには、すでに解答を与えたマーク試験方式になる。どんなに醜い答えであっても、他の選択肢に明らかな間違いがあったらそれが答えとなって公平性が保たれる。だれからも文句は出ない。問題作成者にとって最大の問題は、文句が出ることだろうから。だから、今度の試験もマーク試験のはずだ。(設備はすでに整っているし。)
ここで張り切るのが、偏差値55程度の指導者集団であろう。(と、イヤらしい書き方をしてしまうが。)
でまた、基準を鮮明にするためのcan-doリストが「到達度」とされ、英語だったら細切れの知識が目的の学習に堕す。そんなで知の根幹に到達できる生徒が育つはずはなかろう。
共感していただいてどうもありがとうござます。
学校の勉強も、本来は大きな木のように、根っこがあって、その上に幹が育ち、数多くの葉っぱができる。葉っぱだけ欲しがっても、葉っぱだけではすぐに枯れてしまうんだけれど。
ところで、またおいでいただけるのでしたら、今度はお名前、何かハンドルネームでお願いいたします。m(__)m