今はもう本当に、クリアカットな物言いや判断がよしとされる。しかし、人間はそんなに明解な「線引き」ができる存在ではない。
学校でもどこででも「基準をはっきり示す」ことが求められるし、「マニュアル」も「線引き」が変形したものである。これが子供の成長に悪影響を及ぼす。詳細な教育目標や言語化が可能のされるcanーdoリストなんぞもこの類いだと私は思っている。
子供の成長というのは、何本の線であれ、既に「線」として引いてあるものの上に存在するものではないと思う。一見したところではそのように見えるかもしれないが、幼子が成長する際に、果たしてどの子も同じように成長するかというとそんなわけないことはすぐわかる。それなのに、いざ「教育」となると、まるでどの子も同じ線上に立てるかのように題目が与えられ、子供がそれに沿っているかどうかの判定が要求される。
子供を馬鹿にした話だと思う。
「じゃあ、どうすればいいのだ。子供の読み書きの能力を学校という集団教育の場で教えるには、目標や達成基準が必要なのではないか。」と言う声が聞こえそうである。
何だろう?
私は、そこまで大人が子供の能力の向上に介入しなければならないのかと疑問に思うのだ。
「できる」とか「わかる」というのは個人的な敬虔で、何も他人が評価して行う事項ではなかろう、というのが持論なのかもしれない。
本当に「できた」とか「わかった」というのは、自分しか評価しえないことではないのかなぁ、と思うわけだ。いい頃加減に「できた」と判断する子供もいるだろうが、それは、「できた」と表明することが自分の利益に通じるという経験則から来ているんじゃないのかなぁ、と言う気がする。そんなのは「できてない」と示唆する必要性があるだろうが、できた子ができたことを「他人による評価」で判断しやるのはどうなのかなと思ったりする。もっと、本人の気持ちのありようや気分のような主観的なものと結びつけてやる経験をさせるのが良いんじゃないのかなと思う。
私が見ているのは高校生で幼児や小学生ではない。しかし、今どきの高校生を見ていると、何かしら、「自信のなさ」のようなものというか、「不正直」というか、そんなのを感じる。私の例え方だと、イチローをはじめとする一流のアスリートの努力の仕方とはだいぶ異なるのではないかなと思うのだ。(と書くと、「誰でもがイチローになれるわけではない」とか「それには才能が要る」などの反論が来るが、それは結果論でしかない。イチローほどに才能を開花させることができる能力を持つ者であっても育て方によっては才能を決して開花させることが不能になる方向に進むようなやり方だ、と言う意味で、「不正直」と表現する。)
イチローのような才能であっても、決してクリアカットな成長の仕方をしたわけではないと思う。グニャグニャ、あっちこっちずれることが合ったと思う。しかし、それが本物を作り上げる重要な要因になっているのではないかと思うのだ。それなのに、今風に、クリアカットな評価で詳細に判定され続けると、こうした一見無駄な「グニャグニャ」がそぎ落とされてしまうと思うのだ。
ちょっとめんどーになってきたから端折るが、矛盾した存在で矛盾した思考体系を取り、矛盾した行動をする人間を、まるで矛盾が悪であるかのように「矛盾」を認めない蛮行が横行しているように感じるのである。原因は、おそらく「前提」と「目的」を確認したがらないことである。射程の長いものの見方を「わかりにくい」と嫌悪するせいである。
私は人間が人間である条件が何であるかと問われたら、「今、ここにないものを想像できる力を持っていること」と即答する。時空を超えた存在を思い浮かべることこそが人間の能力の証だろう。この意味で、クリアカットなわかりやすさは、人間が人間でなくなっているように思われる。
学校でもどこででも「基準をはっきり示す」ことが求められるし、「マニュアル」も「線引き」が変形したものである。これが子供の成長に悪影響を及ぼす。詳細な教育目標や言語化が可能のされるcanーdoリストなんぞもこの類いだと私は思っている。
子供の成長というのは、何本の線であれ、既に「線」として引いてあるものの上に存在するものではないと思う。一見したところではそのように見えるかもしれないが、幼子が成長する際に、果たしてどの子も同じように成長するかというとそんなわけないことはすぐわかる。それなのに、いざ「教育」となると、まるでどの子も同じ線上に立てるかのように題目が与えられ、子供がそれに沿っているかどうかの判定が要求される。
子供を馬鹿にした話だと思う。
「じゃあ、どうすればいいのだ。子供の読み書きの能力を学校という集団教育の場で教えるには、目標や達成基準が必要なのではないか。」と言う声が聞こえそうである。
何だろう?
私は、そこまで大人が子供の能力の向上に介入しなければならないのかと疑問に思うのだ。
「できる」とか「わかる」というのは個人的な敬虔で、何も他人が評価して行う事項ではなかろう、というのが持論なのかもしれない。
本当に「できた」とか「わかった」というのは、自分しか評価しえないことではないのかなぁ、と思うわけだ。いい頃加減に「できた」と判断する子供もいるだろうが、それは、「できた」と表明することが自分の利益に通じるという経験則から来ているんじゃないのかなぁ、と言う気がする。そんなのは「できてない」と示唆する必要性があるだろうが、できた子ができたことを「他人による評価」で判断しやるのはどうなのかなと思ったりする。もっと、本人の気持ちのありようや気分のような主観的なものと結びつけてやる経験をさせるのが良いんじゃないのかなと思う。
私が見ているのは高校生で幼児や小学生ではない。しかし、今どきの高校生を見ていると、何かしら、「自信のなさ」のようなものというか、「不正直」というか、そんなのを感じる。私の例え方だと、イチローをはじめとする一流のアスリートの努力の仕方とはだいぶ異なるのではないかなと思うのだ。(と書くと、「誰でもがイチローになれるわけではない」とか「それには才能が要る」などの反論が来るが、それは結果論でしかない。イチローほどに才能を開花させることができる能力を持つ者であっても育て方によっては才能を決して開花させることが不能になる方向に進むようなやり方だ、と言う意味で、「不正直」と表現する。)
イチローのような才能であっても、決してクリアカットな成長の仕方をしたわけではないと思う。グニャグニャ、あっちこっちずれることが合ったと思う。しかし、それが本物を作り上げる重要な要因になっているのではないかと思うのだ。それなのに、今風に、クリアカットな評価で詳細に判定され続けると、こうした一見無駄な「グニャグニャ」がそぎ落とされてしまうと思うのだ。
ちょっとめんどーになってきたから端折るが、矛盾した存在で矛盾した思考体系を取り、矛盾した行動をする人間を、まるで矛盾が悪であるかのように「矛盾」を認めない蛮行が横行しているように感じるのである。原因は、おそらく「前提」と「目的」を確認したがらないことである。射程の長いものの見方を「わかりにくい」と嫌悪するせいである。
私は人間が人間である条件が何であるかと問われたら、「今、ここにないものを想像できる力を持っていること」と即答する。時空を超えた存在を思い浮かべることこそが人間の能力の証だろう。この意味で、クリアカットなわかりやすさは、人間が人間でなくなっているように思われる。
いきなり聞かれたら
ボクは、自身を納得させられる答えなんてもってません
だからとっても刺激を受けました
「今、ここにないものを想像できる力を持っていること」
う~ん、なるほど。
いい想像、悪い想像…
「確かに人間だなあ」と思いました。
そして考えました
人間を育てるって
その「想像」に価値と方向をつけること
かもしれない
それって恐いし、自信ないし
でも逃げちゃいけないことだし
オトナの役目なんだろう、とも思う
そこまで考えた辺りで
別の見え方も・・・
「夢」だって「ここにないものを想像すること」だよね って
自分のは最近だいぶ色褪せてきてますが・・・
そうだ
せっかくだから自分の夢にも当てはめてみよう
今、ここに無いものを想像する・・・
なんか明日からが少し楽しく感じられます
ありがとうございました
勢いだけの散文ですみません
お役に立てて嬉しいです。
>その「想像」に価値と方向をつけること
たぶん、価値と方向は、高校生にもなれば、その子自信が見つけ出すものだと思いました。
こちらこそありがとうございました。
またお気楽にどうぞ。