考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

それは正しい思考ではない

2010年05月13日 | 教育
 数人の生徒と立ち話をしていたとき、何かの話のついでに、腰の高さくらいの台の上に靴を揃えて乗せるのは止めた方が良い、と言う話をした。理由は、勿論、西洋の葬儀の風習ゆえの縁起でもない連想をさせるからである。
 すると、一人の生徒が、「だったら、靴箱の上でも靴を乗せてはいけないのか」と聞いてきた。(今どきの生徒はこの手の発想をしばしばする。)
 私は実は、唖然とした。
 あのねぇ、そーゆー発想じゃないの。そんなものの捉え方をしていたら、勉強はできないよ。せいぜいで偏差値55だよ。(←こんなことまで言ってないけれど。)
 思考の揚げ足取りとしか言いようがない。相手の意図することを汲み取る意思の有無である。

 そういえば、このブログでも、私が生徒に「人間と動物はどこが違うか」と質問したときに生徒が「人間だって動物ではないか」言ったのでがっかりした(とか何とか)と書いたら、「生徒の言うことにも一理ある」と言うご意見を戴いた。しかし、(そのときなんと言ったのかよく覚えてないのだけれど)私は与しない。(今思い出したが、キリスト教では、人間と他の動物の間には大きな一線が引かれている。そうした発想がある以上、そのような捉え方があってしかるべきである。)

 言葉の厳密な定義や状況を正確に設定して話をすることなどあり得ないし、物事には常に「例外的な事例や状況」がある。そうした例外を捉えて、重箱の隅を突っつくような発想でものごとを捉えていたら、何もちゃんと見えない。勉強だって、決してできるようにならないよ。勉強というのは基本的に「抽象化の過程」だから、「例外」という「具体」を持ち出すのは禁忌である。「例外」を持ち出して良いのは、異なるものの中に「同じ」を見つけ出す「抽象化」の過程を十分に納得できるほど体得してからである。人間のものの見方は、全てが具体と抽象の行ったり来たりである。

 しかし、まあ、何を言っても、偏差値55か60程度の人は、自分は勉強ができたと思っているから、「否、例外を素早く見出せるからこそ、勉強が、できるのだ。人の言ったことを鵜呑みにせず、異なる発想を見つけ出すことこそが柔軟な思考なのである」と思うだろう。
 Non,non、Never ever 違うよ。そこが偏差値55か60の限界なんですよ。

 何なのだろうなぁ? こうした発想の違いを理解する能力って。あるいは、思考法というのは。
 そのときそのときの「例外」をどのように設定する能力か、ということかもしれない。なぜなら、例外のない事項はない。いかなる場合に、いかなる例外が例外として存在し、その例外をも含有する更なる高次の条件が何であるかという発想を持たない限り、思考の深化や高度化は無理である。まあ、やはり、要は、抽象と具体の行ったり来たりである。でないと、揚げ足取りに終始し、なぜそれが揚げ足取りであるかにすら気がつかないことになるだろう。

 becauseを見て「なぜならば」と意味を取る生徒と「理由だ」と解釈する生徒との違いに通じるような気もしている。訳をさせたら同じであるが、思考(読解)の深化という点では全く次元が異なるのである。
 

2 コメント

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初めまして (3人の子持ち親爺)
2010-05-13 15:48:14
ほり先生
 初めてコメントさせていただきます。
 2週間ほどかけて全てのエントリーを拝読させていただきました。非常に興味深く記事を読ませていただき、大変参考になりました。全てを理解できたとは思いませんが、非常に共感できる記事が多くありました。貴ブログをもっと早くから知っていれば二人の娘(すでに大学生)の教育に役立てることができたかもしれないと思うと少し残念です。ただ、幸いにも中3の息子には間に合ったのでよしととさせていただきます。
 本エントリーには関係ないコメントですが、拝読させていただいたお礼を申し上げさせていただきます。今後も勉強させていただきます。よろしくお願いいたします。
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ようこそ (ほり(管理人))
2010-05-15 00:18:04
3人の子持ち親爺さん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

近頃、IP数の割にPV数が多いなぁと思っていたところです。たくさん読んでいただきましてありがとうございいます。(本人も忘れている記事がたくさんあります。)

子供が大人になるプロセスは、内的にそう変わりあるわけがないんですよね。外界が変わると、内面の変化の仕方も変わると思ってしまうけれど、そんなわけはない。私は、そういった
「人間」について考えたいと思うんです。
不思議なんですね。一人一人違うようにしか見えないし、事実違うのだけれど、それでも、何かしら、「同じ」ものが見えてくる。それが、人間が自分が人間であることを自覚するときではないでしょうか。「古典」はその表れでしょう。

世の中、余りに「違う、違う」といっているものだから、天の邪鬼としては、「同じ」と言いたくなっています。まあ、「同じ」という抽象こそが人間が人間である理由ではありますが。

また気楽に遊びに来てください。
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