考えるのが好きだった

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中学の内申書なんて当てにならない

2005年03月05日 | 教育
 聞いた話。

 その人の娘さんの中学の社会科の成績には、ノート提出の点も入っている。これは、内申書重視の考え方、平常点重視の考え方による、かなり一般的な評価方法であろう。まあ、「中学ならばそういうことはあって当然だろう」と私だって思う。

 しかし、社会のノートの評価は、--どの程度までかは詳しく聞いてないが--色鉛筆の多色遣いできれいに書かれているものでなければ、高得点が取れないらしい。

 う~ん、実は、その中学から、ウチの高校にもかなり高い内申点で入学してくる生徒がいるのだが(なにせ、現勤務校は、2番手ですが、それなりには進学校なので、まあまあの点の生徒も入学してきます。)、その子たちの何人かは、ただひたすらせっせと色鉛筆を塗り塗りして高得点を取ってきたのかもしれないのだ。

 げげーっ。

 自分自身、中学生の時、確か学研のニューコースとか言う参考書を使っていた。理由は、カラフルでわかりやすかったからである。

 そりゃ、確かに色つきはわかりやすいことが多かろう。しかし、自分で勉強をして大事なのは、色数ではなく、どれだけ的確に纏められているかだけではないか。黒一色であろうと、2色であろうと、本人さえきちんと理解ができれば良いはずだ。ノートというのは、自分のために取るものだもの。

 学生時代に家庭教師のバイトをしたとき、出来の悪い子だったが、ノートだけはやたらときれいだった。自分でもきれいなノートを誇りにしている様子だった。彼女にとって勉強とは、自分が何を学ぶかではなく、「きれいなノートを作ること」だったのだ。その子でなくても、確かに「きれいなノート」を目指す生徒は多くいる。でも、それは、いわば「個人の趣味」の問題だと私はとらえていた。
 
 ところが、その中学校の社会科の評価基準は、間違いなく誤った事項をお上(先生という権威)のお墨付きで大勢の子供に教え込んでいるのである。ノートというものが持つ目的を、生徒にはき違えて教えているのだ。

 私は何もコトを大げさにとらえているのではない。この問題の根っこはそういうことだと言いたい。

 これは何も間違った「知識」を教えているわけではないから「悪いこととは言えない」と思う人がいるだろう。生徒のノートにはきっと正しい内容が記してある。しかし、これは、間違った方法論、誤った考え方を教えていると見るべきである。それこそ、よほどたちの悪い、罪深いことではないか。勉強の目的が何であるか、最も大事な部分を先生が完璧にはき違えているのだから。

 その中学の先生の価値基準は、想像するに、分からないわけではない。全然ノートを取らなかったり、汚い字で乱雑に書いていたりしては勉強はできない。ちょっと甲斐性のある子なら、きれいにきちんと、それこそ色分けしてノートを作っているだろう。だから、「下」を見ると、「カラフルできれい」=上位という評価基準になる。
 
 しかし、それではまともな生徒の勉強に対する姿勢の「芽」を摘むことになる。ノートなんて、ある程度できていればいい、ただそれだけのものだ。内申点が多くなったせいで、細かに評価しなければならない状態に陥ってこんな基準ができてしまったのだろう。まったくもってばかげた話である。

 ここで、視点を変えよう。

 このような「カラフルできれいなノートは評価が高い」という価値観で育った子供はどうなるか。
 
 (ちょっと発想が跳ぶが)数多くのデザイナーを食わせる社会を作り出す。

 なぜなら、彼らの最大の価値基準は「見た目がきれい」なモノにあるだろうから。文字情報であっても、「カラフルできれい」でなければ価値がないと思うだろう。逆に、見た目さえきれいであれば、価値あるモノと判断し、場合によっては簡単に騙されてしまうことだって起こりうる。

 人間は判断の基準の大部分を視覚に依存している動物ではあろうが、益々「みてくれ」に左右されるようになると思うと、なんだか相当がっかりする。汚くてまるで「ゴミ」のような古文書の内容に興味を持つ若者が、減るんじゃないのかなぁ。(古本だって、今では「きれい」か「汚い」で価値が決まるのだもの。)そういえば、日本史なんてイマドキ、ほとんど「どうだっていいもの」に類せられているようなものだ。

 ---ここで話が元に戻った。カラフルな社会科(歴史を含む)のノートを賞賛するせいで。
 

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