考えるのが好きだった

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イチローのスイートスポット

2011年04月21日 | 教育
 体育の先生から聞いた話で思ったこと。
 野球のバットには、スイートスポットと言って、芯になる部分があり、ボールはそこに当たると飛ぶらしい。張本?のスイートスポットは3センチ、王は1.5センチ、しかし、イチローのはその半分わずか7ミリ、8ミリらしい。そこに、彼はボールを当てて、飛ばす。
 「もし、イチローが張本と同じ3センチだったら、もっと飛ばすだろう」と。

 しかし、私は、逆だと思った。
 イチローのスイートスポットは、わずかだからこそ、彼はあれだけ打ち続け、記録を伸ばすことができるのだと思う。
 彼のバットの持ち手?の部分は細い。芯にしても、わずかだということは、ボールの衝撃を自分がより鋭敏に感じないことに、ボールを制御できないのではないかと思う。
 この意味で、イチローの感性はよほど精密な作りになっていると思う。というか、より正確に言えば、狭いスイートスポットと、細い持ち手?が彼の精密な感受性を作り上げ、鍛え上げ、育ててきているのだと思う。
 数ミリよりも、もっと細かく自分の感受性を分節することで、彼はボールに対する精度を上げ、より正確なバッティングを可能にしているのだと思う。

 最も精密な機械を作り上げるのは、精密な機械ではなく、人間の感性である。
 そんな風にイチローは、自分を作り上げているのだと思う。イチローは、その意味で、野球をする自分自身、もっと言えば、野球の直に対峙する人間としての極限を求めているのだと思う。彼が究極求めるのは、数字でも、栄誉でもない。年俸や記録も、プロ選手として、求めてないわけでない。しかし、それらは、上澄みだろう。根底にあるは、常に、野球の根源にどこまで迫ることができるかという一人の人類としての挑戦ではないか。野球に真っ正面から向き合う「ヒト」をどこまで精度を上げて作り上げることができるかが彼の目的だろうと思う。そうでなければ、誰も持たないバットで競技することはあるまい。

 イチローは、極限を行くにせよ、このように自分で自分の感性を作り上げる過程の本質は、イチローの野球も、高校生クイズでテレビでたまたま見たフランス語会話の鼻が「ネ」だということを「印象に残った」と言って覚えていた高校生も、似たようなものだと思う。イチローは、高校生の時から、少年野球を始めた頃からこうした感受性を養う練習をしていたのではないだろうか。
 
 私は、どんな生徒も、感受性の育成を目指して勉強をし、部活動をすれば間違いがないと思う。この意味で、たとえば部活動で、対外試合でBチーム同士で対戦し、勝ったり負けたりして勝ち負けを争って励みにする練習は、なんとなく、それはちょっと本質的に違うんじゃないかと思ってしまう。(そればっかりということはないと思うけどね。)
 
 上記、部活について言いたかったのではない。
 生徒が何を目的に勉強をし、励むのか、ということだ。

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