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東大の入試問題とセンター試験の奇妙な共通点

2007年09月23日 | 教育
 センター試験の傾向は、どの教科も大ざっぱに言って、時間との戦いになってきている。英語だって、かつてに比べてずいぶん語数が増えた。(現在は増え止まりか。)要は、短時間にたくさん情報処理をしなさいね、ということである。数学もどうもそうであるらしい。

 これに対処する方策は、とにかく「素早く、正確にする」訓練に尽きる。ある程度の理解力があれば、あとは訓練しろ、ということである。これは、私のコトバで言うと、「作業能力重視」である。ベクトルの方向の違いを求めるのではなく、特定の方向にどんどん進んでいけということである。

 ふと気が付いたのだが、意外に思われるかも知れないが「素早く正確に」は、東大の入試問題が実はそうである。たぶん。昔からそのはずである。で、また、ついでについつい比べてしまうのが京大の問題。
 国語にしても英語にしても、2時間か2時間半の長丁場であった(か、あるかはわかんないけど)。京大の国語は、3題程度だったと思う。現代文、古文、漢文だったか。時間を掛けてかなり難解な文章を読ませて答えさせる。対して、東大は、6、7題あったはずだ。1題1題の文章量は、さすがに京大より少なかったかもしれないが、それでも、とにかく、やたらめったら「量」が多かったはずだ。1題当たりの所要時間は10~20分である(あった?)。京大は、1題当たり3,40分掛けて、「丹念に読んでじっくり思考を深めて解く」って感じで、東大は、「さっさと論理的に処理する」という違い。だから、処理能力が高くないと、東大の問題は解けない。もっと極論して言い換えると、たとえ解ける能力があったとしても、スピードがないと「時間内に解ききれない」のである。深い思考力よりスピードと言った感じか。

 これと同じコトが今のセンター試験に言えるのだ。

 東大は、もともと官僚養成大学である。何だかんだ悪口を言われることが多い官僚さんたちのようだが、私は官僚さんの能力の高さ、事務処理能力の高さには、もの凄いモノがあると思っている。
 官僚さんは、既成の組織で働く人たちだから、組織を壊さないように、つまり、ヨソを向かないように既定の価値観で仕事をすることが求められる(ことがほとんどのはずである)。これは、「処理能力」である。その点、高い論理的処理能力を見る入試問題は、実に知的能力の高い官僚養成大学として(今はそうでもないようだけれど)ぴったりだったのであろう。

 言いたいのは、今のセンター試験は、「さっさと処理する」と言う観点において(のみだけれど・笑)、東大に似ており、ということは、今の日本は、たくさんの(失礼ながら知的能力はそう高いと言えない)「官僚さん」を作ろうとしているのではないか、ということである。既成の組織、価値観を疑わない人たちを。これは学問からほど遠い態度であろうというものだ。

 こういった「学問重視」の言い方をすると、「世間に必要なのは学者ばかりではない」という声が聞こえそうである。
 しかし、何をするに当たっても、「学問的な態度」、つまり、「いろいろな角度から深くものを見て本質を捉えて考え、判断する」という態度は、人間が豊かに暮らそうとするためには必要なのではないか。それこそが人間の特質で、「ない」より「あった方が良い」ものではあるまいか。教育とは、そのためのものではないのか。
 ところが、一定の能力さえあれば(と言う条件は付くが)、少なくとも「大学」と名の付くところに入ろうとする若者に、「学問」を単なる「作業」や「処理能力」に勘違いさせてしまうセンター試験は、実に悪弊でしかない試験である。


4 コメント

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フィールズ賞と科挙 (森下礼)
2007-09-24 16:41:50
今回のほりさんの分析は妥当なものであると考えます。それが数学などにおいてもそのまま成り立つ「定理」のようなものです。東大は官僚養成大学、京大は学者養成大学であることは、ある意味周知のことなのかも知れません。数学においてもそうです。私は数学を専攻したくて東大に入学したのですが、最初にあまりにつまらぬ授業を受けました。ところが私と同年輩の吉永さんという科学ジャーナリストは京大数学科に入学したさい、広中平祐さんの授業に感銘を受けたとその著「数学まだこんなことがわからない」(ブルーバックス)で記しています。広中さんは、フィールズ賞受賞者です。数学のノーベル賞にあたります。うらやましかったですね。もちろん吉永さんがです。
 ただ物事の処理能力を高くするのが目的なら、東大風の問題だけだせばいいことになりますが、それって、中国の活力を奪った「科挙」にちかずいていくと思われます。もともと科挙の科目には理数系の学問は
ありませんでしたが、現代の科挙も、生徒から、考える力を奪い、どうころんでもフィールズ賞が取れないレベルの国に、日本を追いやってしまうでしょう。
 なお、マンガ「ドラゴン桜」で、数学の出題傾向を東大と京大で比較していますが、ほりさんと同じポイントを突いています。
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小役人育成? (ほり(管理人))
2007-09-24 19:08:11
森下礼さん、コメントをありがとうございます。

「ドラゴン桜」は読んだことがないのですが、東大の問題は「誰でも出来るようになるもの」と思います。基礎基本に実に忠実に出題されてますから。よって、「論理」という「誰が考えてもそうなる」思考の道筋を学ぶには実によい。

 しかし、まあ、私が問題にしたいのは、センター試験に論理形成の力がないことなんですよ。論述だったら、まだ良いと思うんです。でも、それがただのマークだから、こまったことなんですよね。

マークは、人(出題者)の思考をなぞるだけで、自ら道筋を作る必要がない。むしろ、それが邪魔になる。数学なんか特にそうでしょう。
同じ「論理」といっても、いろんな道の付け方があるわけだから、「付け方」さえ間違っていなければそれでいいのに、その自由がないのが極めてマズイ。
しかも、国語や英語は、出題文の意図そのものよりもむしろ「出題者の意図」を読み取ることの方が先になる気もしますから、本末転倒です。選択肢問題はそもそも出題者の意図を読み取る問題です。「テキスト」そのものに対峙するのではないのですよ、基本的に。
そんな訓練ばかり、しかも、スピードまで要求するのだから、まともな学習はできません。
目先の指示に従うことしか知らない、アタマがちがちの小役人的発想を持つ人が増えそうな気がします。

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没になった企画 (森下礼)
2007-09-24 19:42:02
 以前、友人と理科・文科を統合した高校生向き教科書を書こうではないかと、共同作業したことがあります。4年ほど前のことです。その教科書のために私が書いた「地政学」のテキストの問題出題法をめぐって揉め、教科書の企画ではなく友人関係さえなくなってしまうという苦い思いがあります。友人は多肢選択とか穴うめでなければ譲らない態度でしたが、私はほぼ論述式で通そうとしました。「解答にいたる道はひとつではない」=ほりさんの言う「論理形成の力」との、私の意図を、友人は認めてくれず、全破綻となった具合です。もっとも、私も彼の選択を退けたのだから、お互い様でしたが。
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選択肢問題 (ほり(管理人))
2007-09-24 22:29:56
森下礼さん、コメントをありがとうございます。

>友人は多肢選択とか穴うめでなければ譲らない態度

この「理由」が問題ですよね。なぜ、多肢選択の方が良いのか。

まあ、多肢選択の方が、実は、問題を作る側が楽しい♪というメリットがあるのです。これ、意外に快感なのよね。で、「はまる」人も出てくるのですよ。良い選択肢を作ると、「どうだー!!」って気分になるのですよ。毒。毒です。(笑)

学校のテストだと、「選択肢でないと、生徒は出来ない」「センター試験の出題方法に合わせて」のどちらかです。

まあ、英語の場合、低学年(1・2年)では、選択肢問題は必要ないというのがふつーの常識だと思います。穴埋めは出すけど。(笑・だって、作文だとできなさすぎる。)
和訳の出題もなかなか難しい。「訳」だけ覚えてくるから。
でも、結局は、「授業をどのように持っていくか」の問題なんですよ。
少しずつ書かせる訓練を積ませるのがこちらの課題です。

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