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氣楽亭 日乗

大阪生まれで奈良県広陵町の長閑で氣楽な田舎暮らしの氣功師が氣ままに綴る懐かしい昭和の年代記です。

瑞鶴

2006-01-30 10:16:49 | 模型懐古譚
昭和30年代の初め「瑞鶴」と言う航空母艦の模型を作りました。
まだプラモデルは無くて「木製」の模型が全盛の頃です。
モーターライズでは有りませんでした。
只の木の切れ端を大まかに組み立てる原始的な模型です。
「セメダイン」が登場して細かい部品も接着出来ました。
釘を使わなくても組み立てられて大満足でした。

ラッカーなぞ買うお金は有りません・・・
水彩絵の具で塗りましたが水に浮かべると絵の具は溶けて滲みます。
絵の具を乾かせてニスを塗ります。
ニスが乾くと鈍く光る「瑞鶴」は完成しました。

プラモデルが出来る前の木製模型が花形だった頃の思い出です。

タイガーロケッティ

2006-01-27 10:20:48 | 模型懐古譚
昭和30年代の初め頃「タイガーロケッティ」と言う「模型ロケットエンジン」が有りました。
少年漫画月刊誌の広告や通信販売で宣伝されています。
模型屋さんで現物を見て買った。

アルミニュウムのキャップの中に固形火薬を入れて付属の導火線に点火する。
言わばロケット花火のような物です。
しかし花火と違い固形火薬を入れ替えると何度も繰り返し使用出来た。

この「タイガーロケッティ」には「A型」「B型」の2種類が有りました。
どちらがどう違うのか覚えていません。

バルサ材の飛行機に「タイガーロケッティ」を搭載して飛ばした。
しかし燃焼時間が10秒足らずで物足りません。
それにコントロールの方法が無いので何処へ飛んで行くか判らない・・・
導火線が途中で消えたりトラブルが多かった。

上手く飛んだ時には「シュュュー」と言う燃焼音と煙は大迫力です
しかし危険な玩具で直ぐに学校で禁止に成りました。
あの頃は「空気銃」など野放しで危険な玩具が多かったのです。

初飛行

2005-12-10 08:20:03 | 模型懐古譚
淀川の河川敷で模型仲間と「グラマンF6Fヘルキャット」の初飛行をしました。
Uコン飛行機の方向舵は右方向に飛ぶように固定して有ります。
飛行機を時計回りの逆回転で飛ばす・・・
時計回りで飛ばすと飛行機は中心(操縦者)に向かって来るので危険なのです。

エンジンを始動させバッテリーのリード線を外し「グラマンF6Fヘルキャット」は滑走し始める。
ピアノ線が張り詰めて尾輪が浮き上がりスピードを上げる・・・
円の中心でピアノ線を握る私は同じ様にクルクル廻る。
そして眼も廻る。
エンジンは燃料が無くなるまで(5分間位)停まらない。

「グラマンF6Fヘルキャット」は勢い良く離陸した。
眼を廻した私はクラクラして何が何だか解らない・・・
上昇を続けた「グラマンF6Fヘルキャット」は宙返りをして急降下。
次の瞬間には地面に真逆さまに墜落・・・
その間わずか5秒程のあっけない初飛行でした。

プロペラは折れ胴体も主翼もバラバラに壊れて修理不能状態です。
かろうじてエンジンだけは使えそうでした。
ウン千円と2週間の努力は5秒で消え去ります。
呆然として壊れた機体を眺め馬鹿笑いで涙を誤魔化す私でした。嗚呼無情

グラマンF6Fヘルキャット

2005-12-09 10:12:33 | 模型懐古譚
Uコン飛行機の機体は米国の戦闘機「グラマンF6Fヘルキャット」を「海洋堂模型店」で買いました。
「グラマンF6Fヘルキャット」は大東亜戦争(太平洋戦争)後半に出て来た艦上戦闘機で俗に「艦載機」と謂われた飛行機です。
「グラマンF4Fワイルドキャット」は日本海軍の0式艦上戦闘機に敵いませんでした。
其の後継戦闘機が「グラマンF6Fヘルキャット」です。
今から思えば日本の国土を機銃掃射などで蹂躙し数多同胞の生命を奪った憎い米国の戦闘機を模型と雖も買って組み立てたのか疑問です
其の頃はTVで「コンバット」や「ギャラントメン」「ラットパトロール」「頭上の敵機」などアメリカ軍が主人公のドラマが沢山有りました。
漫画週刊誌「少年マガジン」や「少年サンデー」には戦記物が連載され広告欄にはプラモデルの戦車や戦闘機、戦艦で賑います。
アメリカ軍が善玉で万能だった・・・

模型飛行機はバルサ材を組み合わせて機体を作り薄い布を胴体や翼に張り合わせる。
ドープと言う塗料を何度も塗り乾燥させてコーティングし強度を高めます。
完全に乾いたところで濃紺のラッカーを重ね塗りし胴体と翼に白い星を描いて完成しました。
完成までおよそ二週間近くかかり難儀した事を覚えています。

友達の模型仲間と連れ立って淀川河川敷へと勇んで初飛行へと急ぎました。

Uコン模型飛行機

2005-12-08 10:16:40 | 模型懐古譚
昭和30年代の後半に中学校へ入学した。
小学校の隣が中学校で少しばかり近くなる。
日曜日に近くの淀川河川敷で模型エンジン飛行機を飛ばす事が流行した。

学校の近所に有る「海洋堂模型店」で何時もエンジンや飛行機を見ていました。
宮脇オジサン(海洋堂模型店の店主)は見るだけの我々を嫌な顔一つしないで歓迎してくれる。
入学祝や小遣いを貯めてエンジンと飛行機の機体やUコン装置を買いました。

UコンとはUコントロールの略で模型飛行機の翼にピアノ線を装着して手元で操縦する方式です。(其の頃に大流行した。)
15m位のピアノ線を手元で持ちエンジン付きの模型飛行機がその周囲を喧しい音を立てながら凄まじいスピードで飛行する・・・
飛行機と同調して体も廻さないといけないので眼を廻します。
慣れるまではパニクッてよく墜落させた。
ロジオコントロール(無線操縦)は高価だったので裕福な大人の趣味で子供には手が出ない。
それに操縦も高度なテクニックが必要です。

エンジンはエンヤかOSか迷ったけれどOS09を買いました。
マウントにエンジンを載せてプロペラを装着しバッテリーからリード線を繋ぎ専用の燃料をスポイトで入れる。
試運転と慣らし運転をしました。
指でプロペラを廻すと咳き込みながらエンジンが廻る。
ニードルを開くとエンジンは物凄い音を響かせて回転する。
直ぐに近所のオバチャンが飛んで来て「喧しい」と怒られた。

直ぐにエンジンを停止し謝ります。
次は機体造りに取り掛かりました。

駄菓子屋の模型飛行機

2005-10-02 10:07:33 | 模型懐古譚
私が模型に親しんだ原点は「駄菓子屋の模型飛行機」です。
細長い紙の袋(10cmX60cm位)にパーツと説明図が入っていて30円位から有りました。
パーツは竹ひご数本、細い木の角材(胴体)合成樹脂のプロペラ、車輪、針金の前脚、アルミのニューム管(竹ひごを繋ぐジョイント)翼になる紙、ゴムひも、などでした。
ゴム動力の木と竹と紙と合成樹脂のプロペラで上手に作れば良く飛ぶ飛行機です。

しかし子供が作るのにはなかなか難しい模型でした。
真直ぐな竹ひごを翼の形にローソクの炎で炙り曲げるのが大変です。
あせって早く曲げて竹ひごを折ってしまったり、ローソクの炎が竹ひごに燃え移ったり・・・最初の挫折を経験する。

竹ひごが上手く曲がればニューム管で繋ぎ胴体の角材に糸で巻きつけます。
垂直尾翼と尾翼も取り付けて骨組みの完成と成る。
糊を薄く溶いて翼の紙を貼り付けます。
そのまま乾かせばしわになるので霧吹きで翼全体を湿らせる。

乾けば完成ですが主翼の取り付け位置を重心のバランスを見ながら微調整します。
プロペラを通す針金のフックと尾翼の下のフックにゴムひもを引っ掛ける。
胴体を持ってプロペラを廻しゴムをねじり動力を貯めます。
長く飛ばそうとゴムを巻きすぎるとプッンと切れてお終いになる・・・
何度も挫折の経験を積んでコツを実際に体得するのです。

近所の原っぱへ行き初飛行を楽しみます。
しかし重心が悪いと直ぐに墜落したり、良く飛びすぎて他所の家の屋根の上に不時着したり大変な経験をする。
肥後の守と言うナイフで竹ひごや角材を削り手先は器用に成りました。

0ゲージの電気機関車セット

2005-08-19 10:29:12 | 模型懐古譚
小学校1年生(昭和31年)の時に「Oゲージの電気機関車セット」をクリスマスプレゼントに買って貰った。
ブリキのガラレール(中空のレール)の3本線の線路で真中の1本から電気を取り入れ電気機関車が走るのです。
変圧器(トランス)で家庭用の100Vの電気の電圧を下げてコネクターで線路に接続する。
電気機関車は金属製でパンタグラフも開閉する精巧な鉄道模型でした。
車輪と車輪の間に銅製の集電コネクターがあり真ん中の線路に通電している電気を集めてモーターを動かします。
最初は基本セツト(電気機関車、線路、変圧器)だけでしたので物足りません。

お小遣いを貯めてはポイントや車止、直線レール、などを買い揃えました。
其の頃の鉄道模型は0ゲージが価格も手頃で全盛期です。
HOゲージは精密で小さく線路も2本で機関車も付属品も高価でした。
大人の鉄道マニア向けの高級品で子供には手が届きません。

Oゲージは大きくて迫力は有りますが線路が3本で玩具臭く感じました。
しかしブリキのホームや駅舎、踏み切り、信号機、鉄橋、様々な貨車が発売されていて沢山揃えました。
6畳間一杯に線路を敷き詰めて飽きる事無く電気機関車を走らせます。
信号機は赤、青のランプが電気機関車の進行に伴い点灯しました。
腕木シグナルも赤、青のランプが点灯し腕木が上下に動きます。
タンク車や無蓋車、冷凍車などの貨車を連結して線路の上を走ります。
6畳の部屋は足の踏み場も無い位に線路で覆われていました。

鉄道が好きに成った原体験です。
今も懐かしくてOゲージの鉄道模型をネットオークションで探すのですが・・・
恐ろしく高価で貧乏氣功師の私にはとても手が出ません。

模型の進化

2005-06-24 10:14:46 | 模型懐古譚
模型と言えば昭和20年代後半は木製模型しか有りませんでした。
ゴム動力の飛行機は竹ひごをローソクの火であぶり(説明図にあわせて曲げる)ニューム管で接続し紙を張り主翼、垂直尾翼、尾翼を作ります。
子供には到底無理な話です。
竹ひごを燃やしたり、強く曲げすぎて折れたり・・・
木製の0ゲージのトロッコ、電気機関車、貨車、客車、線路も木製です。
モーターボートや戦艦、巡洋艦、航空母艦、駆逐艦、潜水艦・・・木製です。
自動車、戦車も木製です。
全部がただの木の細切れ状態で箱絵とは似て非なる物でした。
想像力とイマジネーションが唯一の武器だったのです。

昭和30年代中頃に国産のプラモデルが登場しました。
戦闘機の曲線や風防、リベットまで再現してあるのには驚いた。
今思えば玩具に近いものでしたが・・・

プラモデルのメーカーは雨後の筍のように誕生しました。
木製模型メーカーの田宮模型や玩具メーカーのマルサン商店などが2派の流れの源流です。
木製模型メーカーの流れは静岡県に集中し、玩具メーカーは東京に集中していました。
愛読している月刊誌、少年、少年クラブ、少年画報、漫画王、冒険王、ぼくら、おもしろブックや週刊少年マガジン、サンデーにはプラモデルの広告が満載されていました。
ベビーブーマーの団塊の世代の我々をターゲットにした商戦国時代の幕開けです。
其の頃の雑誌や模型メーカーは殆ど残っていません。


海洋堂模型店の思い出

2005-06-23 11:21:01 | 模型懐古譚
京阪D駅前通り商店街の東側に小さな海洋堂という模型店が開店したのは小学生の4~5年生の時だった。
K小学校の正門の一つ手前の通りがその商店街で僕らの日常の行動範囲内でした。
店主は宮脇さんという名前のおじさんで帆船模型と小説を書くのが趣味の人でした。
子供心に普通の大人ではない趣味人を感じて毎日ほど店に入り浸った。

其の当時の模型店の店主は因業者が多く買いもしないひやかしの子供は嫌われた。
模型の専門店は少なく文房具屋さんや本屋さん駄菓子屋さん玩具屋さんの片隅に模型は置いてあった。
子供が模型の箱を開けて中を見ることは厳禁で箱を紐で難く縛って有った。
当然、部品が破損したり欠品したら売り物には成らないからである。

しかし宮脇のおじさんは違った、偶にしか買わない僕らでも大事にしてくれて模型の箱の中身も見せてくれた。
僕がおじさんのフアンになり小遣いを貯めては模型を買ったのは昔々の45年位前の忘れていた古い思い出でした。

頃日、TVの特集番組で門真市のフィギュアメーカーとして世界的に有名な(株)海洋堂を取り上げた番組を何の気なしに見ていた。
会長のインタビユーの場面でアナウンサーが「宮脇会長」と言った・・・
なんとあの宮脇のおじさんではないか!
ガレージキットで以前から海洋堂の名前は知ってはいたがM市のD駅前通り商店街の海洋堂が門真市に移転し(株)海洋堂に大発展していたとは夢にも思わなかった。
今ではその精巧な商品は大英博物館にも認められて英国へ納品しているとは驚いた。

宮脇おじさんの小説家への夢は叶わなかったけれど良かったですね。
昔々の小さな縁ですが海洋堂模型店のフアンだった事を感謝します。