大異山高徳院清浄泉寺(鎌倉大仏)

(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)
神奈川県鎌倉市長谷4-2-28
鎌倉三十三観音霊場・第23番札所
鎌倉大仏

高徳院参道の石畳。この先の仁王門をくぐって、有名な鎌倉大仏が鎮座する境内へと向かいます。
〔宗派〕
浄土宗
〔御本尊〕
阿弥陀如来坐像
(あみだにょらいざぞう)
南に広がる相模湾と、東・西・北の三方を囲む山々に守られた天然の要害である鎌倉は、源頼朝公が征夷大将軍の官位とともに「幕府」という武家による国家統治機構を築いた地として知られ、鶴岡八幡宮をはじめ建長寺などの禅刹が立ち並ぶ歴史あふれる町並みと、小町通りや若宮大路を中心としたお洒落で味わいのあるショッピングスポットとが見事に調和した、魅力あふれる観光地として連日賑わいを見せています。その鎌倉のシンボルともいうべき存在が、今回ご紹介する鎌倉大仏です。
奈良・東大寺の盧舎那大仏、神戸・能福寺の兵庫大仏(富山県高岡市・大佛寺の高岡大仏や、岐阜市・正法寺の岐阜大仏とする場合もある)と並んで「日本三大大仏」の一つとされる鎌倉大仏は、「長谷の大仏」の名でも親しまれ、浄土宗寺院である「大異山高徳院清浄泉寺」の御本尊として多くの参拝客の崇敬を集めています。
鎌倉大仏を御本尊とする寺院が創建された時期については確かな事は伝わっていませんが、草創当初は真言宗の寺院だったといわれ、鎌倉・極楽寺を開いた真言律宗の忍性上人が住持となっていた事もあります。その後、建長寺の末寺となって臨済宗寺院となったり、浄土宗である鎌倉の長谷寺の管理下に置かれたりと変遷を重ねますが、江戸時代中期に江戸・増上寺の祐天上人による再興が行われて以降は浄土宗に定まり、「高徳院」という院号を名乗ることとなりました。


高徳院の仁王門(左)。境内には記念樹が彩りを添えています(右)。
大仏殿を持たない「露坐の大仏」として知られる鎌倉大仏は、1237(嘉禎4)年3月23日より造営が始められました。武士の都・鎌倉に大仏を建立するという事は、もともとは鎌倉幕府初代将軍である源頼朝公の発願だったといわれています。しかしながら、源頼朝公はその志を形にする前にこの世を去ってしまいます。没後、その遺志を継いで建立を進めたのが源頼朝公の侍女だった稲多野局で、志を共にする僧・浄光上人が諸国を勧進してまわって建立資金を集め、大仏建立に至ったと伝えられています。
当然ながら、大仏および大仏殿の建立という国家的大事業が民間の力のみで成し遂げられたとは考えにくく、事業の遂行には鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時公や、源頼朝公の妻で国母ともいうべき北条政子の助力があったと考えられます。そういった様々な支援の結果、6年という長い歳月をかけて8丈(約24m)の木造の阿弥陀大仏と大仏殿が完成し、1243(寛元元)年6月11日に開眼供養が行われました。この時造られた大仏は木造の仏像だったといわれています。


台座を含めた高さは13.35m、総重量は約121tという巨大な「露座仏」である鎌倉大仏。
東大寺の大仏は国家的事業として建立されたもので、「仏教による天下太平と国民の幸せの実現」が目的だったといわれています。当時は天候不順による旱魃・飢饉が続いた事に加えて天然痘が大流行、734(天平6)年には大地震が発生して甚大な被害が発生し、さらには九州において「藤原広嗣の乱」が勃発するなど、人々の苦しみと政治への怨嗟の声はピークに達していました。聖武天皇は、こうした社会不安を何とか収めたいという思いで「大仏建立の詔」を発したといわれています。
鎌倉大仏が建立された13世紀前半も、似たような社会不安に包まれていました。同じく天候不順が続いて人々の生活が疲弊していた上に、1230(寛喜2)年には全国的に長雨が続いて異常な冷夏(武蔵国では旧暦の6月に雪が降ったと伝えられています)となり、台風襲来による被害も発生、さらには異常な暖冬に見舞われるなど作物の不作はピークとなり、翌年の1231(寛喜3)年には「天下の人種三分の一失す」といわれた鎌倉時代最大規模の「寛喜の飢饉」が発生して全国各地で餓死者が続出しました。
時の執権・北条泰時公も、このような国家を揺るがす重大問題への対応に加え、1227(嘉禄3)年から1230(寛喜2)年の4年間で次男・北条時実公(16歳の若さで家臣により殺害)、長男・北条時氏公(28歳で病没)、三浦泰村公のもとに嫁いだ娘(出産した孫が夭折、娘自身も産後の肥立ちが悪く翌月に死去)を次々に失い、公私ともども疲弊の極地にありました。こういった様々な政情不安や身辺の不幸を鎮めようという思いが大仏建立へ繋がったと考えても不思議ではありません。
しかしながら、強大な軍事力を背景に政治の実権を握り、諸問題を解決してきた武家政権にとって、国家鎮護を神仏に委ねるという事は存在意義を問われかねず、表向きは「勧進聖による寄付によって出来た庶民の大仏」という体裁をとって幕府自体は影からの援助に徹し、大仏を建立する事によって民心を安堵させて社会不安を鎮めようとした、というのが真相に近いのではないでしょうか。


背面から見た鎌倉大仏(左)。内部には、台座脇から入る事ができます(右)。
6年の歳月をかけて完成した鎌倉大仏ですが、完成してわずか4年後の1247(宝治元)年に台風による暴風雨で倒壊してしまったため、1252(建長4)年にあらためて金銅製大仏の造営が始められました。この時造られた大仏が現在のものだといわれています。その後、1335(建武2)年に台風のために大仏殿が倒壊。その際には鎌倉幕府最後の執権・北条高時公の遺児で「中先代の乱」と呼ばれる反乱を起こして鎌倉に攻め入っていた北条時行公の軍勢が雨風を避けるために大仏殿に避難しており、倒壊によって中にいた兵士500人が圧死したと伝えられています。さらには1369(志安2)年にも台風によって倒壊の憂き目に遭いました。
室町時代に入っても1495(明応4)年に起きた「明応の大地震」によって発生した大津波のために大仏殿は押し流され、これ以降は大仏殿の再建は行われる事なく現在のような「露座の大仏」となりました。それ以来、風雨にさらされ続けた鎌倉大仏は荒廃が進んで参拝する者もほとんどなく放置されたままになっていましたが、江戸時代中期の1712(正徳2)年頃に、浅草の豪商・野島新左衛門の財政支援を受けた増上寺の僧・祐天上人とその弟子・養国上人の手によって修復事業が行われて往時の輝きを取り戻しました。この時には寺院の再興も行われ、宗旨も浄土宗に定まったといわれています。大仏殿の再建も計画されていたようですが、高徳院で火事が起きたり、出資者である野島新左衛門がお咎めを受けて島流しになったりした事で立ち消えとなってしまいました。
1923(大正2)年の関東大震災では台座が崩れるなどの被害がありましたが、2年後の1925(大正14)年には修復され、1960(昭和35)年から行われた大修理では首周りの補強や免震対策も行われています。


朝鮮王宮内にあったといわれる観月堂(左)と、与謝野晶子の歌碑(右)。

アクセス
・江ノ島電鉄「長谷駅」下車、北へ徒歩10分。
・JR横須賀線「鎌倉駅」より江ノ島電鉄バス・京浜急行バスにて「大仏前」バス停下車すぐ。
高徳院(鎌倉大仏) 地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.
【境内図】
拝観料
・大人:200円、中高生:150円、小学生:150円 (身障者手帳をお持ちの方はご本人に限り無料)
※大仏胎内の拝観には一律20円をお納めください。
拝観時間
・7時~18時 (4月~9月)
・7時~17時30分 (10月~3月)
※大仏胎内拝観時間:8時~16時30分(通年)
公式サイト
