神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

福島・多珂神社(南相馬市)。

2011年08月26日 | ▽東北地方
縁結び・厄除開運・国家安寧


多珂神社

(たかのじんじゃ)
福島県南相馬市原町区高字城ノ内112




太田川の脇に立つ石造りの大鳥居。1900年もの歴史を持つ古社への入口です。



〔御祭神〕
伊邪奈伎命
(いざなぎのみこと)


「多珂荒御魂命」とも呼ばれる
※1857(安政4)年編纂「奥相志」より


 国の重要無形民俗文化財として知られる勇壮な「相馬野馬追」。福島県相馬市の相馬中村神社、南相馬市原町区の相馬太田神社、南相馬市小高区の相馬小高神社を中心に、毎年7月の最終土・日・月の3日間にわたって繰り広げられる、1000年以上の歴史を持つお祭です。第6代・相馬重胤公が陸奥国の行方郡に入って以来、小藩ながらも武勇に優れ、北方の雄・伊達氏や関東の佐竹氏に一歩も引けをとらず独立を維持し続けた相馬氏は、大勢力に囲まれながらも、常に武芸のみならず学問・礼儀作法など文武両道の鍛錬を重ね、高い結束力と士気を保ち続けた名族です。平将門公が敵の軍勢に見立てた野生馬を相手に軍事演習を行ったという故事が始まりだといわれる「相馬野馬追」は、鎌倉時代に幕府より軍事訓練一切に関する厳しい取り締まりが行われたにもかかわらず、「野馬追」という神事の形をとる事で実質的な軍事演習の場として継続して行われてきました。





福島第1原発事故に伴う警戒区域の看板(左)と、鳥居脇で倒れたまま放置されている石柱(右)。



 そんな伝統ある「相馬野馬追」ですが、2011(平成23)年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震で一帯が甚大な被害を受けた事により、開催が危ぶまれるという事態に陥ります。「規模を縮小して開催すべき」「とても祭どころではない。中止すべき。」という意見や、「こういう時だからこそ犠牲者の鎮魂のためにいつも通りの規模で行おう」という意見など様々な意見が寄せられましたが、関係者の皆さんの真摯な議論の結果、最終的には行事を大幅に縮小し、震災で犠牲になった方々の鎮魂と地域の復興を願う「東日本大震災復興・相馬三社野馬追」として開催される事となりました。7月23日の相馬中村神社での出陣式を皮切りに、7月24日の相馬太田神社での例大祭を経て最終日へと進んだ「相馬野馬追」ですが、例年会場となっていた相馬小高神社福島第1原子力発電所の事故に伴う警戒区域内にあって立ち入り禁止になっているため、今年は半径20㎞の警戒区域のすぐ外にある多珂神社にて、神事や「上げ野馬神事」が開催されました。今回ご紹介するのは、「相馬野馬追」神事の代替地となった、1900年の歴史を持つといわれる古社・多珂神社とさせていただきます。





多珂神社の手水舎(左)。右は集落の中にある多珂神社の境内。



 多珂神社は、景行天皇の勅命を受けて東夷平定のために陸奥国へと進軍した日本武尊(ヤマトタケル)が、岩手県の北上川流域にあったとされる蝦夷の支配する国・日高見国を攻略する際、111(景行天皇40)年7月に大明神川原の近くにある玉形山に神殿を建てて戦勝祈願を行ったのが始まりとされています。現在の社地である城ノ内から西に500mほど行った所に古内という地区がありますが、この一部が大明神川原と呼ばれていて、元々の社殿が建てられた「往古の地」だといわれています。その後、199(仲哀天皇7)年2月にこの地を襲った暴風雨のために社殿が大破してしまい、9月になって城ノ内(当時は芦野平と呼んでいた)に遷座されて再建されました。創建時期に関してはあくまで社伝に基づく伝説の域を脱しませんが、同じ原町区内には4世紀後半頃に造られたと見られる桜井古墳がある事から、少なくともこの頃には大和朝廷の影響力が及んでいた事が分かります。





境内摂社(左)と七福神の石像(右)。本来は台座の上にありますが、震災で倒れてしまいました。



 927(延長5)年に作成された「延喜式名神帳」には、陸奥国行方郡に鎮座する神社のうち多珂神社高座神社日祭神社冠嶺神社鹿嶋御子神社御刀神社益多嶺神社押雄神社の8社が選ばれています。中でも多珂神社名神大社にも列せられており、行方8座の中で最も霊験著しく格式の高い神社であるだけでなく、陸奥国でも屈指の名社とされ、東北各地に鎮座する多珂神社のルーツとなっているともいわれています。ちなみに「多珂」という名前は、朝鮮半島から渡来した高句麗氏族に由来しており、これらが東北各地へと移住していく中で「」「多珂」「多賀」などの地名を残していったといわれています。





社殿正面、南向きに立つ苔むした鳥居(左)。参道脇に立つ小さな摂社(右)。

多珂神社の拝殿。相馬中村藩主・相馬忠胤公によって1655(明暦元)年に修復されました。



 行方郡式内社8座の筆頭である多珂神社は、古来より身分の上下を問わず多くの人々の厚い信仰によって支えられてきました。1380(康暦2)年には藤原吉守公という人物より鰐口が寄進され、1655(明暦元)年4月には相馬氏の第19代当主で相馬中村藩の第3代藩主である相馬長門守忠胤公より資材の献上を受けて社殿の修復が行われました。相馬忠胤公は、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠公の近習も勤めたことのある上総久留里藩第2代藩主・土屋利直公の次男に生まれましたが、相馬中村藩の第2代藩主・相馬義胤公に世継ぎの男子がいなかったため、娘の亀姫のもとに婿入りする形で相馬氏の家督を継いだ人物で、藩政の運営に優れた手腕を発揮して名君として慕われました。元禄年間(1688~1704年)には第5代藩主・相馬昌胤公から白符鷹の彫刻が奉納され、さらに1724(享保9)年には、同じく相馬昌胤公より社田として1石9斗あまり(約2反)が寄進されています。多珂神社は明治維新後の近代社格制度において、1873(明治6)年に郷社に列せられ、1886(明治19)年10月には県社に昇格されています。なお、境内には八坂神社稲荷神社太田農神社の3社が境内社として祀られていますが、どれがどの社殿にあたるのかは表示がなく分かりませんでした。





本殿の脇に鎮座する摂社(左)。避難されているのか、社務所に人の気配はありません(右)。


アクセス
・JR常磐線「磐城太田駅」下車、南へ徒歩8分。

多珂神社 地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.
 

拝観料
・境内無料

拝観時間
・常時開放



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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あの事故以来 (リン)
2013-01-28 23:30:39
こんばんは。放射線はどうでしょか。もともとあまりいかない所ですが。
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