神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

菅原道真公⑩ 「残る任期と"阿衡の紛議"」。

2012年05月12日 | ★特集

⑩ 残る任期と「阿衡の紛議」






菅原道真公が何度か訪れた明石の駅亭。
休天神社には腰掛け石が残されています。





 菅原道真公は887(仁和3)年の11月に正五位下の叙勲を受け、久々に京の私邸で家族とともに正月を過ごしました。しかし、いつまでも京の暮らしを楽しむわけにはいかず、春には後ろ髪を引かれながらも再び讃岐国への旅路に出ます。明石の駅亭までやってきた菅原道真公は、「題駅楼壁」という詩を詠んでその複雑な胸中を吐露しています。任地へ戻った菅原道真公には、解決すべき問題が山積していました。888(仁和4)年の讃岐国は日照りが続き、5月に入ってもまったく雨の降らない毎日で、農作物への影響も懸念されていました。ただでさえ前年には都に「調」として納めた絹の品質が悪かったとして譴責を受けていただけに、作物の出来には非常に神経を尖らせていた菅原道真公は、状況を打開するべく讃岐国府の西にある城山に登って雨乞いの祈願を行いました。"超人的な能力を持つ菅公"というイメージから作られた伝説だと考えられなくもないですが、菅原道真公が祈祷を始めるとたちまち空が掻き曇り、豪雨が降り出して田畑を潤したという話が伝えられています。











 この頃、都では「阿衡の勅」を巡って国政が停まってしまうほどの騒動が起こっていました。そもそもの発端は、887(仁和3)年に崩御した光孝天皇の後を継いだ宇多天皇が、重臣である藤原基経卿に対して関白に就くよう詔を出したあたりから始まった話でした。「関白」は天皇の代わりに政務を行う職でしたが、全権を任される「摂政」とは異なり、あくまで最終決定権を持っているのは天皇でした。しかしながら、朝廷の実力者である藤原基経卿に対する最大の配慮による人事だったと思われます。この詔を受けた藤原基経卿は、当時の貴族の慣習に従って「私にはこのような重責は身に余るもの」と一旦辞退します。この返答を受け取った宇多天皇は、翌日改めて関白への就任要請を行いましたが、参議・橘広相卿が起草したこの時の勅答文の一節に、のちのち騒動の原因となる「阿衡の任を以って卿の任と為すべし」という文言が入っていました。












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