大内山 仁和寺
(おおうちざん にんなじ)
京都市右京区御室大内33
真言宗十八本山・第6番札所
京都十三仏霊場・第9番札所
通 称
旧御室御所
(きゅうおむろごしょ)
「京都三大門」の一つに並び称される名建築の二王門。
〔宗派〕
真言宗御室派 総本山
〔御本尊〕
阿弥陀如来像
(あみだにょらいぞう)
源氏物語の珠玉の章ともいわれる「若菜」。ここでは、病のために出家の決意を固めた朱雀院が、唯一その行く末に心を痛めていた愛娘の女三の宮を異母弟である光源氏に託すエピソードが綴られています。朱雀院は、愛娘の降嫁を見届けたのち造営を進めていた「西山の御寺」に隠棲することになりますが、そのモデルとなったのが仁和寺だといわれています。
広々とした参道(左)と、その奥に立つ朱塗りの中門(右)。
仁和寺は886(仁和2)年、鎮護国家と仏法の繁栄を願った光孝天皇の勅願によって「西山御願寺(にしやまごがんじ)」として建立が始められました。光孝天皇はその完成を見ることなく翌年に崩御されましたが、その遺志を引き継いだ宇多天皇によって888(仁和4)年に金堂が完成され、弘法大師空海の弟子・真然上人の手によって落慶法要が営まれました。西山御願寺はやがて、創建時の年号を取って「仁和寺」と呼ばれることとなります。
御室桜に包まれた石畳の参道(左)と重要文化財の五重塔(右)。
宇多天皇は、一度は臣籍降下して源定省と名乗っていましたが、関白・藤原基経卿の後押しで皇族に復帰、光孝天皇の崩御を受けて皇位に就きました。その後、菅原道真公と藤原時平卿を重用して「寛平の治」と呼ばれる天皇親政を推し進めたのち、897(寛平9)年に退位。その2年後には真言宗の僧・益信のもとで出家して法皇となります。そして904(延喜4)年には仁和寺の伽藍の西南の地に「御室」と呼ばれる僧坊を建立して入山しました。当初は僧坊の役割でしかなかった「御室」もやがて院政の中心としての政治的機能を持つようになり、それに伴って仁和寺一帯は平安時代から鎌倉時代にかけて隆盛を誇っていきました。
しかし、仁和寺も京都の寺院の運命の例に漏れず、1467(応仁元)年から始まった「応仁の乱」の兵火によって堂宇僧坊が悉く焼け落ち、受難から150年以上の長きに渡って現在地の南にある双ケ丘の堂舎で細々と法灯を守るのみとなってしまいました。1524(大永4)年には寺僧である覚算によって再建の勧進が行われましたが、虚しく不調に終わるなど、不遇の時代はまだまだ続くこととなります。
阿弥陀三尊を祀る金堂。京都御所の紫宸殿を移築したものです。
苦悩の時代が続いた仁和寺の運命が大きく変わったのは、江戸時代に入ってから。1634(寛永11)年、門跡を務めていた覚深法親王による復興の願いが江戸幕府第3代将軍・徳川家光公によって認められ、大規模な復興が行われることとなったのです。折りしもこの時期、京都御所も再建の時期を迎えており、紫宸殿や清涼殿をはじめとする多くの建造物が仁和寺に移築されるなど、1646(正保3)年には王朝文化の香りが色濃く残る見事な伽藍が再興されて落慶法要が営まれました。
遅咲きの「御室桜」の咲き乱れる風景は圧巻の一言に尽きます。
「仁和寺」と聞いてまず連想するのが桜です。仁和寺にはソメイヨシノやシダレ桜などさまざまな種類の桜がありますが、中でも有名なのが「御室桜」と呼ばれる遅咲きの里桜で、3m前後という背丈の低さが特徴の桜です。御室桜は17世紀末の伽藍再建のころに植えられたもので、約200株もの桜が毎年4月下旬ころに見事な花を咲かせ、多くの参拝客の目を愉しませてくれます。江戸時代より庶民の桜として親しまれ、当時の有名な儒学者・貝原益軒によって吉野山の桜に勝るとも劣らないと絶賛された御室桜は、1924(大正13)年には天然記念物法によって名勝に指定されています。
御所の清涼殿を移築して建てられた御影堂。重要文化財指定。
アクセス
・京福電鉄北野線「御室仁和寺駅」下車、北へ徒歩5分。
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拝観料
・境内無料 ※御室桜の開花時期に行われる「さくらまつり」の期間は拝観料が必要。
(大人・高校生:500円、小中学生:200円)
・御殿=大人・高校生:500円、小中学生:300円
・霊宝殿=大人:500円、高校生・中学生:300円
拝観時間
・9時~16時30分(受付は16時まで)
公式サイト