神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・上品蓮台寺。

2008年06月02日 | ◇京都府 -洛北

蓮華金宝山 九品三昧院 上品蓮台寺

(れんげきんぽうざん くぼんざんまいいん じょうぼんれんだいじ)
京都市北区紫野十二坊33-1

通 称
千本十二坊



千本通を北上していくと、通りに面して建つ上品蓮台寺の山門を見つけました。


〔宗派〕
真言宗智山派

〔御本尊〕
延命地蔵菩薩
(えんめいじぞうぼさつ)


 千本釈迦堂(大報恩寺)釘抜地蔵(石像寺)千本閻魔堂(引接寺)などが立ち並ぶ千本通。「千本通」という名前は、かつてこの通りに沿って1,000本近い卒塔婆が立ち並んでいたことに由来します。この卒塔婆には冥界に近い場所といわれていた蓮台野葬場らしい伝説が残されています。

 醍醐天皇が崩御されてから4年が経った934(承平4)年8月のこと。吉野山で修行していた日藏上人は突然気を失い、気がつくと冥界の地に立っていました。そこには、菅原道真公を無実の罪で大宰府へと左遷してしまった罪のために地獄で苦しむ醍醐天皇の姿がありました。「船岡山の地に1,000本の卒塔婆を立てて供養してもらえればこの苦しみから救われる」という醍醐天皇の懇願を受けた日藏上人は、さっそく朱雀天皇に奏上して1,000本の卒塔婆供養を行ったといいます。ちなみに、地獄で醍醐天皇が詠んだという歌も伝えられています。


「いふならく ならくの底に 入りぬれば 刹那も首陀も かはらざりけり」



 
明るく咲き乱れる枝垂桜と、整然と伸びる石畳や銅像との美しいコントラスト。



 その千本通に建つ上品蓮台寺は、母の菩提を弔うために聖徳太子が創建し、蓮台野にあって皇族の葬送にも関わりがあったと伝えられる香隆寺がルーツだといわれています。960(天徳4)年に入り、宇多法皇から真言密教奥義の灌頂を受けた寛空上人が、その勅願を受けて寺院を再興して「上品蓮台寺」という寺号を定めたといわれています。再建当時は広大な境内に伽藍が建ち並び壮大なものでしたが、残念ながら1467(応仁元)年から10年以上続いた応仁の乱の兵火によって悉く焼失してしまいました。

 それから約1世紀後、16世紀末の文禄年間に入って紀州の根来寺の僧侶・性盛上人が中心となって上品蓮台寺を復興、真言宗智山派の寺院として再出発を図ることとなりました。この時、千本通の両サイドに12院の塔頭を持つ大寺院となったために「千本十二坊」という呼び名がつきました。広大な寺域を誇った上品蓮台寺も、明治時代に入って出された上地令によって寺領の多くを国家に納め、現在の規模に落ち着きました。




 
境内の至るところで咲き誇る枝垂桜。どれもみな立派な枝振りです。



 上品蓮台寺には、京都に現存する最古の絵巻物といわれる国宝の「絵因果経」や、重要文化財に指定されている「絹本著色六地蔵像」が所蔵され、境内には平安時代中期の仏師で、寄木造の手法を完成させて宇治・平等院鳳凰堂に納められている国宝・阿弥陀如来像を彫り上げたことでも知られる定朝の墓があります。また、多田源氏の祖である源満仲公の嫡男で、優れた武勇で有名だった平安時代の貴族・源頼光公の墓も境内に残されています。周辺にある観光スポットとは異なり、それほど知名度は高くありませんが、その分きれいな枝垂桜を心ゆくまで愉しむことができる隠れた名刹です。





境内の南側に建つ本堂。


アクセス
京都市バス1・12・204・205・206・101洛バス・102洛バスほか「千本北大路」バス停下車、徒歩3分
京都市バス6・46・59・206系統「千本鞍馬口」バス停下車、徒歩3分
上品蓮台寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料  ※観光寺院ではありません

拝観時間
・9時~17時

京都の寺社505を歩く (PHP新書)
槇野 修
PHP研究所


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