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神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・小野八幡神社。

2006年06月02日 | ■神戸市中央区
厄除け・交通安全

小野八幡神社

(おのはちまんじんじゃ)
神戸市中央区八幡通4-1-37




社域のすぐ背後に神戸市役所が見えます。まさに神戸の中心に鎮座する神社です。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)



 神戸市役所から少し東にいくと、オフィスビルに囲まれて鎮座する神社があります。そこが小野八幡神社です。社務所に掲げられた表札には「新渡戸」とありました。小野八幡神社の宮司さんは、前の五千円札に描かれていた新渡戸稲造氏の御親戚にあたるのだそうです。宮司の娘さんも小野八幡神社の権禰宜で、日本の神道を世界に広めるべくアメリカの地で活躍されています。鳥居の脇には宮司のお子さんの活躍ぶりが載った記事が誇らしげに掲示してあり、微笑ましいものを感じました。オフィス街という立地、娘さんたちの若い感性もあるのでしょうか、近隣の企業の協力を受けて秋祭に「ギャルみこし」を企画するなど、なかなか面白い神社だという印象を受けます。





交通安全厄除け祈願でも有名な小野八幡神社の社殿。



 小野八幡神社は887(仁和3)年に創建されたと伝えられており、9世紀末の寛平年間(889~898年)には神前の七草を宮中に献上したという記録が残されています。それから時代は下って平安末期の源平争乱期のこと。平知盛公率いる平家軍は、神戸を拠点に守りを固めて源範頼公を総大将とする源氏軍を迎え討ちます。平家軍は西は須磨・一の谷の守りを固め、北は夢野に防衛線を張り、そして東から攻め寄る源氏軍に対しては生田川を防衛ラインとして生田の森に拠って堅い守りを固めていました。両軍が対峙する中、武蔵国から参陣した河原太郎高直公と河原次郎盛直公という兄弟が、勇敢にも平家の大軍の中に先陣を切って斬りこみます。これがきっかけで両軍は激突、連動するように各地で戦端が開かれ、有名な「鵯越の逆落とし」によって総崩れになった平家軍は海へと敗走していきます。

 平家の滅亡後、勝利のきっかけを作るも敢え無く敵の矢に射られて戦死した河原兄弟の功績を称えた源頼朝公が、2人の菩提を弔うために現在の大丸元町店の北に報恩寺を建立します。そのときに報恩寺の鎮守の神とされたのが小野八幡神社です。「小野八幡神社を報恩寺の鎮守にした」という話と「報恩寺の鎮守とするために小野八幡神社を建てた」という話があるので創建の時期はどれが正しいのか分かりませんが、少なくとも800年以上の歴史を持つ由緒ある神社であることは間違いありません。(大丸北側の地から現在地に遷ったのは戦後になってからです)




 
社殿左には白玉國高稲荷と巳神社(左)、右には金刀比羅社が鎮座しています(右)。



 拝殿の左に建つ白玉國高稲荷の鳥居の傍らに、小さな慰霊碑が建てられています。この慰霊碑は、1945(昭和20)年3月の神戸大空襲で宿直勤務中に殉職した7名の電話交換手の慰霊のために建てられたものです。御幸通にあった神戸中央電話局葺合分局に勤務していた皆さんは、「通信を確保せよ」という軍令を受け、何があっても職務から離れないよう義務付けられていたため、空襲の爆音が鳴り響いて周囲が火の海と化していたにも関わらず、必死に電話を繋ぎ続けて犠牲になったといいます。交換手たちが犠牲になった地に新しいビルが建てられた際に慰霊碑が建立されましたが、阪神淡路大震災のためにそのビルが全壊したために小野八幡神社の境内に移されたそうです。こんな町なかにも、戦争の傷跡はひっそりと残されています。




 
大空襲で殉職された電話局員の方々の慰霊碑(左)。右は震災で折れた鳥居。



アクセス
・JR「三ノ宮駅」下車、南へ徒歩7分
・阪急電車「三宮駅」下車、南へ徒歩8分
・阪神電車「三宮駅」下車、南へ徒歩7分
・神戸市営地下鉄「三宮・花時計前」下車、南へ徒歩3分

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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神戸・諏訪神社(諏訪山)。

2006年05月28日 | ■神戸市中央区
健康長寿・商売繁盛

諏訪神社

(すわじんじゃ)
神戸市中央区諏訪山町5-1



見上げると延々と続く参道。諏訪山稲荷神社ともいいます。


〔御祭神〕
-諏訪明神-
建御名方大神
(たけみなかたのおおかみ)
比売神
(ひめのかみ)

-諏訪山稲荷-
宇迦之御魂大神
(うかのみたまおおかみ)



 兵庫県庁から相楽園の西側を通ってまっすぐ北へ歩くと、坂を登りきったところに諏訪神社の鳥居が目に飛び込んできます。気軽な気持ちで参拝しようと思うと大変な目に遭います。とにかく急な坂です。そのため、体が不自由だったり高齢でこの急な坂を登りたくても登れない方でも「諏訪山のお稲荷さん」に参拝できるよう、麓にある一の鳥居の脇には遙拝殿が設けられるなどの配慮がなされています(鳥居の手前左側にあるのが遥拝殿)諏訪山神社さんの優しい心遣いが感じ取られて暖かい気持ちになります。




二の鳥居まで来てもまだまだ急な坂は続きます。


さらに登り続けると、最後に石段が待っています。



 二の鳥居を越えて、さらにきつい石段を登るとようやく拝殿にたどりつきます。諏訪神社の歴史は古く、今から1600年ほど前の仁徳天皇の時代に皇后である八田皇女の離宮鎮護の神さまとして諏訪大明神を祀ったのが始まりだといわれています。

 諏訪大明神の鎮座するこの地は、生田神社長田神社の中ほどにあたるため古くは中宮と呼ばれ、地名もそれにちなんで摂津国八部郡中宮村と名づけられていたそうです。1778(安永7)年には伏見稲荷大社から宇迦之御魂大神を勧請し、諏訪山稲荷神社とも称されるようになりました




大正時代に建てられたという拝殿。



 諏訪神社の祭神・建御名方大神出雲神話に登場する神さまです。天照大御神が地上の統治権を譲るよう求めた「出雲の国譲り」のとき、一番最後まで抵抗したのが建御名方大神です。千人力の豪腕だった建御名方大神ですが、天照大御神が使わした建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ) との力比べに破れて出雲から信濃の諏訪まで落ち延び、最終的には国譲りに同意したうえで諏訪の地に隠棲することになったといいます。

 地方勢力が中央朝廷の政治的・軍事的な圧力に敗れたという意味合いの神話の中の姿とは異なり、建御名方大神は狩猟の神として崇められ、弓矢のイメージから軍神としても崇敬を集めるようになります。坂上田村麻呂公が蝦夷征討に向かう際に戦勝祈願をしたところ、諏訪神の神兵が加勢して敵軍を打ち破ったというような伝説も残っています。

 また、12世紀末の源平争乱期には源義経公が諏訪山を訪れて戦勝を祈願したという話も残されています。「一の谷の戦い」など神戸を戦場に奮闘していた源義経公だけに、武神・建御名方大神を祀る諏訪山を参拝したという言い伝えの信憑性は高いのではないでしょうか。



   
拝殿の隣には高儀稲荷(左)と三木稲荷(右)。三木稲荷には多くの摂社が祀られています。



 境内には「中華民国十四年~」などという書き込みが多数あります。また、拝殿には赤字で書かれた提灯が飾られています。この神社は昔から華僑の方の参拝が多く、中国人が好む赤に配慮しているそうです。

 


大・中・小の鳥居が並ぶ諏訪姫社。拝殿はなく、鳥居のみが建っています。



 この神社の近くには諏訪山公園があります。明治のはじめに公園として整備されたこの地には温泉ができ、料亭が建ち並ぶなど眺望に恵まれた歓楽街として栄えました。1928(昭和3)には動物園もつくられたそうです。



アクセス
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、北へ徒歩15分
・神戸市バス⑦系統「諏訪山公園」下車、徒歩5分
 諏訪神社地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

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神戸・北野天満神社。

2006年05月15日 | ■神戸市中央区
学業成就・諸願成就

北野天満神社

(きたのてんまんじんじゃ)
神戸市中央区北野町3-12-1



異人館などで有名な観光地・北野の坂を登ったところにあります。


〔御祭神〕
菅原道真公
(すがわらみちざね)



 神戸には東灘の綱敷天満神社や須磨の綱敷天満宮など、菅原道真公が立ち寄ったという言い伝えの残る神社がいくつかあります。ここ北野天満神社菅原道真公を祀る神社ですが、どちらかといえば平清盛公との縁の深い神社といえるかもしれません。




北野の坂を登った上に、まだ急な石段があります。



 1180(治承4)年、平清盛公によって行われた福原遷都。このとき様々な神社・仏閣が新都・福原の地に移されたことは、花隈・厳島神社のところでも書きました。北野天満神社も、それらと同じく禁裏守護・鬼門鎮護の神さまとして京都・北野天満宮より勧請されて祀られたそうです。「北野町」という町名は、この神社が由来となっています。

 おもしろいのは、社殿を建てたときに管理を任されたのが信海上人という僧侶だったそうです。なんとなく、細かいことにこだわらず懐広くいろんなものを受け入れる雰囲気が感じられます。




石段を登ったところにある拝殿。舞台として使われています。
(神戸市の重要伝統的建造物)



 風光明媚な北野町には、明治の開港以来多くの外国人が住む町となりました。ここ北野天満神社もそんな外国の方々の氏子がたくさんいらっしゃいます。3月には「北野プラムブロッサム・フェスティバル」「北野国際いけばな展」、7月には「北野国際まつり」「北野国際パレード」など、国際色豊かなお祭りが行われています。こういった多くの行事やお祭りを通じて、人種や宗教を越えた相互理解を実現しようとされています。




拝殿の北に建つ本殿。これも神戸市の重要伝統的建造物だそうです。



 本殿は約260年前に造営されたと言われています。上記の拝殿をはじめ、透塀や鳥居、灯籠、石段が神戸市の重要伝統的建造物に指定されています。神戸市は景観条例に基づく「都市景観形成地域」の指定に併せて、異人館など貴重な伝統的建造物が集まっている北野町のこの地域を、文化財保護法に基づく「伝統的建造物群保存地区」に指定してしっかりと町並みを守っていく努力をしています。




坂や石段を登ってきて良かった、と思える景色。神戸の町は美しいです。



鳥居の脇には「叶い鯉」があります。


 ここにある鯉の像に水をかけてお祈りすると願いが叶うと言われている「叶い鯉」。鯉に水をかけるということから、恋が叶うともいわれているそうです。



アクセス
・JR新幹線「新神戸駅」下車、西へ徒歩15分
・阪急電車「三宮駅」下車、北へ徒歩20分
・阪神電車「三宮駅」下車、北へ徒歩20分
・JR神戸線「三ノ宮駅」下車、北へ徒歩20分

拝観料
・無料

拝観時間
・6時半~17時頃(裏の入口からは出入りできます)

公式サイト
    神戸北野天満神社ホームページ



神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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神戸・生田神社。

2006年05月14日 | ■神戸市中央区
縁結び・健康長寿・合格祈願・勝運・交通安全

生田神社

(いくたじんじゃ)
神戸市中央区下山手通1-2-1

神仏霊場兵庫 豊饒の道・第1番札所
KOBE七福神・弁財天



神戸の中心地・三宮に鎮座する生田神社。「神戸」の名の由来となった神社です。


〔御祭神〕
稚日女尊
(わかひるめのみこと)



 JRや阪急、阪神や神戸市営地下鉄の三宮駅から高架沿いに西へ少し歩くと、「IKUTA ROAD」のアーチが目に入ります。昼も夜も多くの人々で賑わう神戸の中心地・三宮の生田新道沿いに立つ東急ハンズの向こうに、朱塗りが一際明るい大きな鳥居が立っています。その奥に鎮座しているのが生田神社長田神社湊川神社とともに神戸三社のひとつに数えられ、初詣の際には神戸の中で最も多い150万人近い参拝客を集める由緒正しい古社です。創建の時、社領として朝廷より神社に御供えする米や酒などを作る荘園である神戸(かんべ)を賜わり、9世紀初頭の記録には「生田の神封四十四戸」という記述が残されています。この神戸が中世になるにつれて紺戸(こんべ)に変わり、最終的には神戸(こうべ)となったそうです。そのため、生田神社は「神戸」という名前の由来となった神社としても知られています。




 
ともに鮮やかな朱塗りが映える二の鳥居(左)と楼門(右)。



 「日本書紀」によると201年、神功皇后新羅遠征から難波の都へ帰る途中に神戸港にさしかかったところ、船がぐるぐる回って進まなくなりました。そこで務古の水門(現在の和田岬辺り)まで戻って占いを行ったところ、稚日女尊の神託を受けました。「吾は活田長峡国に居らむと 海上五十狭茅に命じて生田の地に祀らしめ。」 つまり「わたしは活田長狭国にいたいのです。海上五十狭茅に命じて生田の土地に祀らせてほしい」というのです。その神託に従って祠を築いたのが始まりだとされています





震災で全壊した社殿は、氏子の皆さんの御尽力によって不死鳥の如く復活しました。



 「活田」や「長狭」はこの地域の古い地名で、今も「生田通」「北長狭通」などの地名に名残りを残しています。ただ、元々の御社は今の新神戸駅の奥の砂山(いさごやま)と呼ばれるところにありました。砂山は、読んで字のごとく砂地で崩れやすい地盤の場所だったため、周囲に松の木が植えられるなど地滑り対策が行われていました。しかし、せっかくの松林も長く続いた大雨のためにあっけなく崩壊。祠の御神体は、長雨による土砂崩れを心配して危険を顧みずに駆け付けた刀祢七太夫という地元の若者によって間一髪救出され、現在地に遷されたといわれています。洪水を防ぎ切れなかったため、現在でも「松の木頼むに足らず」として境内に1本も松を植えられておらず、正月に飾られるはずの門松も松を一切使わず杉の木で代用するほど徹底されています。




 
社殿の奥に鎮座する市杵嶋神社(左)と、鬱蒼と広がる「生田の森」(右)。



 神社の北西には1,600㎡にわたって「生田の森」が広がっています。生田の森は、往古は現在のフラワーロード辺りにまで及ぶ広大な森でした。交通の要衝の地に広大な森を抱えた生田神社は、軍事上も重要な拠点となったため何度も戦乱に巻き込まれることとなります。源平の争乱の時には平知盛公が生田の森に陣を構えて源範頼公と戦い、南北朝争乱の際の湊川合戦では新田義貞公がここで足利尊氏軍を迎え討ちます。戦国時代には織田軍が謀反した荒木村重公が拠っていた花隈城を攻める際にここを中心に陣を構えるなど、戦乱に遭うたび様々な被害を受けて貴重な文献も失われていきました。




 
梶原景季公ゆかりの「箙の松」(左)と、「鏡の井」とも呼ばれる「梶原の井」(右)。



 その後も1938(昭和13)年に神戸を襲った阪神大水害や、1945(昭和20)年に起きた神戸大空襲、そして1995(平成7)年の阪神・淡路大震災など、何度も壊滅的な被害を受けてきた生田神社は、そのつど氏子や崇敬者の方々の協力により復興を果たしてきました。そして度重なる被害から立ち直った神社だということから「蘇る神」として崇敬されています。また、勝運の神としてJ1リーグのヴィッセル神戸など、地元に本拠を置くスポーツチームも必勝祈願と1年の健康祈願のために訪れています。




 
二の鳥居の左手に鎮座している大海神社(左)と、右に鎮座する松尾神社(右)。


アクセス
・阪急電車「三宮駅」下車、北西へ徒歩5分
・阪神電車「三宮駅」下車、北西へ徒歩7分
・JR神戸線「三ノ宮駅」下車、北西へ徒歩7分
・神戸市営地下鉄山手線「三宮駅」下車、徒歩すぐ
生田神社地図  【境内図】  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト



生田神社
加藤 隆久
學生社

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神戸・神戸空港(夜景)。

2006年04月18日 | ■神戸市中央区

神戸空港
神戸空港・夜バージョン
神戸市中央区神戸空港1




夜のポートライナー神戸空港駅。


 昼間の空港は、大勢の乗客や見物客の賑わいで活気があってなかなか楽しいのですが、その喧騒が去った後の最終便間近の空港は、昼とは違った物静かな表情を楽しむことができます。



あれほど混雑していた出発ロビーも、最終便の頃には…




展望フロアへ上がるエレベーターの脇には 「スカイコート」 と呼ばれる光庭があります。


 




 昼間は、展望フロアのフェンスの前には立錐の余地がないほど見物客がひしめいていたのですが、夜9時を過ぎるとこんなもんです。ゆっくり夜景を楽しんだり、飛行機の発着を見物するには良いかもしれませんね。



神戸の夜景。昨日も掲載しましたが、少し大きめのサイズで。



伊丹&神戸空港―西日本最大の国内線空港を大解剖! (イカロスMOOK―日本の空港シリーズ)
AIRLINE
イカロス出版



札幌から帰ってきたJAL便。安全第一でお願いします!



 今のところは、まだ飛行機を利用しての旅行の計画はしてませんが、夏までには一度神戸空港からのフライトを楽しんでみたいと思っています。個人的には新興で頑張っているスカイマークエアラインズに乗って東京に行くのもいいな、なんて考えています。
何といっても日程がうまく合えば5,000円で東京へ行けるというのは魅力的ですからね


 

神戸・神戸空港。

2006年04月16日 | ■神戸市中央区

神戸空港
神戸空港
神戸市中央区神戸空港1



空港への玄関口・ポートライナー神戸空港駅です。時計の上には風見鶏。


神戸市営・第3種空港



 今日は開港以来まだ1度も足を運んでいなかった神戸空港に行ってきました。ポートライナー三宮駅から神戸空港駅行きに乗車。終点である神戸空港駅には18分で到着しましたが、景色を楽しみながらの車中はあっという間に時間が過ぎました(ちなみに運賃は320円)。




駅の改札を出るとすぐに空港の入り口が。ここを入ると…




そこはいきなり出発ロビー! う~ん、とっても便利



 ここ2階には各航空会社のカウンターがあります。向かって左側にはANA(全日本空輸)のカウンターや銀行のATM、喫煙室などがあります。右側にはJAL(日本航空)とスカイマークエアラインズのカウンターやお土産店などがあります。

 搭乗客はここで15分前(スカイマークは20分前)までに搭乗手続きを行うだけですぐに飛行機に乗ることができます。ということは、ライナーに乗ってから飛行機の出発までの所要時間は最短で40分ほど。飛行機で出発する1時間前でも、まだ三宮で買い物を楽しんでいられるんですね




3階のガラス越しの景色。飛行機がめっちゃ近い





週末のお昼過ぎということもあり、4階の展望フロアには大勢の見物客が。



 屋上となる4階展望フロアからは滑走路が一望でき、北に回れば六甲山や神戸の市街地の景色も楽しむことができます。
 
 このフロアの誕生のいきさつに関しては、いろいろ複雑な事情があって手放しで喜べないのですが、「観光都市・神戸」としては何で最初の段階で眺望に関する気配りが抜けていたんだろうと、そっちのほうが不思議でなりません。




展望台から南を見ると、滑走路の上で待機する飛行機たちが。




北側からは六甲の山並みと神戸の市街地が一望できます。我が家も見えているかも(笑)




夜はこんな感じになります。






空港に隣接する駐車場。収容台数750台。



 神戸空港で本当に感心するのは交通アクセスに対する配慮です。ポートライナーでのアクセスも抜群でしたが、何より神戸大橋からポートアイランド、そして空港島への道路がすべて無料。しかも、空港に隣接する駐車場の料金も格安なんです。最初の30分以内は無料、普通に駐車しても1時間150円。市内では1時間400円から600円くらい取られることを考えると、ほんとに安いですね。10時間を超えて24時間までの料金が1500円、搭乗者割引料金として平成20年3月末までは24時間まで無料。駐車料金をそれほど気にかけずにクルマで空港に行き、出張で仕事を済ました後に神戸に帰ってきてクルマで自宅に帰るといったことができる、「小回りの利く空港」といった感じがしました。


伊丹&神戸空港―西日本最大の国内線空港を大解剖! (イカロスMOOK―日本の空港シリーズ)
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神戸・厳島神社(花隈)。

2006年03月19日 | ■神戸市中央区
航海安全・芸能向上

厳島神社

(いつくしまじんじゃ)
神戸市中央区花隈町6-5




花隈公園の北側、少し路地に入ったところに鎮座する花隈厳島神社。


〔御祭神〕
市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと=弁天さん)
大物主命
(おおものぬしのみこと=金刀比羅さん)


 厳島神社 の御祭神は「宗像三女神」と呼ばれる多紀理姫命市杵島姫命多岐都姫命の3姉妹の神々です。元々は、北九州を基盤とする海人集団(筑紫国の海人族・宗像君という説があります)が信仰していた海の守護神だったといわれており、揃って"美人"の誉れ高い女神だったそうです。北九州で信仰されていた宗像三女神が全国的に崇敬を集めるようになったのは、朝鮮半島や中国大陸との交流が増えた4世紀末頃からだといわれています。波浪高く潮流も速い、荒々しい海である玄界灘を越えるために、朝廷の使者が渡航前に宗像三女神に航海安全を祈願するようになってその霊威が全国的に拡がりを見せていったといわれています。安芸国の宮島に厳島神社を築いた平氏も、西日本を勢力基盤とする海洋氏族だったことから、航海安全に多大な神徳を持つ宗像三女神への崇敬の心を強く持っていたのではないでしょうか。





明治に入って現在地に落ち着いた厳島神社の社殿(左)と、嘉永3年建立の灯篭(右)。



 国際港湾都市として古来より海外との交流が活発に行われていた神戸にも、海の守護神である厳島神社が数多く祀られています。1180(治承4)年に福原京を築いた平清盛公は、都を造営する際に平家一門の氏神として深い信仰を寄せていた安芸国の厳島神社から、宮島の七浦にちなんで7つの社を神戸に勧請してきました。勧請されたのは宗像三女神の中でもとりわけ美人との誉れ高い市杵島姫命で、市杵島姫命は神仏習合の観点からから、仏教における弁財天と同神だとされていました。和田神社真光寺能福寺来迎寺済鱗寺恵林寺兵庫厳島神社氷室神社と、ここ花隈厳島神社の7社がその時に平清盛公によって建立された寺社だと伝えられています。

 もともと平清盛公が建立した頃は花隈村清水の地にありましたが、花隈城が築城される際に生田神社の境内に遷され、江戸時代の天明年間(1781~1789年)に宇治川の河口付近に遷されました。明治初期に神戸港が建設される際に今の神戸中央郵便局がある辺りに移転され、さらに郵便局が建設されることとなって現在の花隈の地に遷座されました。神戸ハーバーランドの近くにある「弁天町」という地名に、当時厳島神社があったという名残りが残されています。海沿いにあった頃を偲ばせる「神戸最初船場鎮守」と書かれた扁額が、現在も鳥居に掲げられています。





「神戸最初船場鎮守」の扁額(左)。地清女社・出雲大社・住広稲荷を祀る摂社(右)。


アクセス
・阪急電車「花隈駅」下車、北東へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車南西へ徒歩5分
厳島神社(花隈)地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.
拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放


神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
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神戸・南宮宇佐八幡神社。

2006年03月16日 | ■神戸市中央区
厄除開運・産業守護・勝ち運

南宮宇佐八幡神社

(なんぐううさはちまんじんじゃ)
神戸市中央区脇浜町2-3-6




阪神高速3号線の高架の脇に立つ南宮宇佐八幡神社の外観。


〔御祭神〕
応神天皇
(ほんだわけのみこと=誉田別命


 神戸の灘区と中央区にまたがるように、海側に新しい町が生まれました。灘区側を灘浜、中央区側を脇浜といい、HAT神戸という住宅街も出来ていますが、その近くに古からの脇浜の鎮守社である南宮宇佐八幡神社が鎮座しています。1336(建武3)年、足利尊氏公追討のため兵を進めていた楠木正成公は、この辺りで休息をとって八幡大神に必勝を祈願したといいます。その後、村民たちがその地に八幡神社を建てたのが始まりといわれており、古老のかたの話では元来「南宮(なんぐう)」は楠木正成公にちなんで「楠宮」と呼ばれていたそうで、時代を経るにつれ「南宮八幡神社」という名に変化していったそうです。南宮宇佐八幡神社には常駐の宮司はおらず、秋の大祭の時(10月第三日曜日)などには生田神社から宮司がお見えになり、神事を執り行っています。社務所の脇の備品にも、大きく「生田神社」と書き込まれていました。




 
再建された白亜の鳥居(左)と、社殿の左隣に立つ脇浜稲荷神社(右)。


 
 一般に、八幡神社には応神天皇神功皇后がそろって祀られていることが多いのですが、南宮宇佐八幡神社には応神天皇だけが祀られています。右奥の摂社には海の近くだけあって住吉の3神が、左にはお稲荷さんが祀られています。南宮八幡神社は昭和7年に現在地に移転されて大々的に造営が行われ、この際に現在の社殿の100mほど東にあった宇佐八幡神社を合祀して南宮宇佐八幡神社となりました。境内の北を走る国道2号線沿いの「脇浜二丁目交差点」の南側には、宇佐八幡神社があったことを示す石碑が残されています。南宮宇佐八幡神社村社という社格だったため、官幣神社のように国の保護を受けることは出来ませんでしたが、この南に工場のあった神戸製鋼所をはじめとする地元企業の手厚い庇護を受けて数十年に一度の割合で社殿が建て替えられていたそうです。戦時中は食糧難から境内には芋などが植えられ、その蔓が社殿に巻き着いていたこともあったようです。また、別の記録を見ると、以前はこの神社にも地車(だんじり)があったらしいのですが、明治時代中期に廃絶されたとあります。ただ、秋季大祭が行われる10月第2土曜日には神輿や子供神輿の巡幸が行われています。




 
阪神淡路大震災のダメージから再建成った社殿(左)と、その右隣に立つ住吉社(右)。


アクセス
・阪神電車「岩屋駅」下車、南へ徒歩5分
南宮宇佐八幡神社地図  Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.
拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
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神戸・神戸教会。

2006年02月18日 | ■神戸市中央区

神戸教会

(こうべきょうかい)
神戸市中央区花隈町9-16




前の歩道橋から写した神戸教会。隣接して幼稚園も運営しています。


〔所 属〕
日本基督教団
(プロテスタント)



 神戸教会の創始者は1870(明治3)年に来日したダニエル・C・グリーン という牧師でした。新婚だったグリーン牧師は、新妻のメリーさんとともにアメリカンボード最初の日本派遣宣教師として来日しました。当時はまだ幕府時代に引き続いてキリスト教が禁止されていたため、キリスト教関係者の動向は官憲に厳しく監視されていました。そのためグリーン牧師は、しばらく英語の教師として活動する事を余儀なくされました。1873(明治6)年になってキリスト教の布教が解禁されると、グリーン牧師は繁華街だった元町通5丁目にキリスト教関連の書籍販売店を構え、日曜ごとに礼拝を行うようになります。当初は10人程度の集まりでしたが、翌年に11人が洗礼を受けたのを機に教会を構えることになりました。1874年(明治7年)4月19日、西日本では最初のプロテスタント教会「摂津第一神戸基督公会」が産声をあげた瞬間です。





正面玄関(左)と、戦時中の空襲で破壊された教会前の敷石(右)。



 1873(明治6)年には米国婦人伝道会社タルカット牧師とダッドレー牧師が来日し、花隈に私塾を開いて教育活動を続けていた神戸教会は、旧三田藩の藩主夫人との縁がきっかけとなり、1875(明治8)年には山本通に少女教育のための寄宿学校「神戸ホーム」を建てました。この学校が「神戸英和女学校」・「神戸女学院」へと発展していきます。現在は西宮市の岡田山に才智の集う「神戸女学院」ですが、1933(昭和5)年までは神戸にあって神戸教会と密接な関係を持っていました。次第に信徒を増やした神戸教会は1878(明治11)年に北長狭通6丁目に移転。さらに1888(明治21)年に現在の地に移って布教活動を続けていきました。現在の建物は1932年(昭和7年)に第4期会堂として建てられたものです。

 戦時中には日本陸軍に接収され、空襲への備えとしてコールタールで真黒に塗装をされましたが、1945(昭和20)年6月1日の神戸大空襲で被災。しかし、周囲が全焼したにも関わらず、奇跡的に教会だけは被害を免れました。現在でも会堂の脇には被弾した敷石が平和の記念として保存されています。終戦後、アメリカの教会の支援によってコールタールを洗い流す工事が行われ、神戸教会は再び白い姿を取り戻すことができました。





教会の壁面にあるステンドグラスの窓(左)と、空に向かって聳え立つ塔(右)。


アクセス
・JR「元町駅」下車、北西へ徒歩10分
・阪急電車「花隈駅」下車、北へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄「県庁前」下車、西へ徒歩3分
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公式サイト


近代日本と神戸教会

創元社

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神戸・神戸栄光教会。

2006年02月14日 | ■神戸市中央区


神戸栄光教会

(こうべえいこうきょうかい)
神戸市中央区下山手通4-16-1




兵庫県庁と兵庫県公館の間に立つ神戸栄光教会。レンガの色が彩りを添えています。


〔所 属〕
日本基督教団
(プロテスタント)



 神戸栄光教会 は、関西学院の創立で有名なJ・W・ランバス氏が旧居留地47番に創立した南メソジスト派神戸教会がその基礎となっています。1886(明治19)年に来日したランバス氏は、その4ヶ月後に来日した息子のウォルター夫妻とともに伝道に努め、2年後には中央区下山手5丁目に会堂を新築しました。ウォルター夫妻は1890(明治23)年にアメリカに帰国し、J・W・ランバス氏もその2年後に亡くなりましたが、神戸栄光教会 自体はその後も発展を続けていきました。1922(大正11)年には赤レンガのモダンな建物が建てられ、長く神戸のランドマークとして市民に親しまれています。





神戸栄光教会の正面玄関(左)と、その前にある手入れの行き届いた美しい花々(右)。



 美しい景観で市民に愛された神戸栄光教会 も、阪神・淡路大震災によって全壊し、長い間仮設での暮らしが続きました。震災の5ヵ月後には再建委員会が作られ、再建に向けて議論を続けましたが「震災の記憶を払拭するためにも21世紀にふさわしい教会を」「慣れ親しんだ以前の姿に戻したい」など様々な意見が出てなかなか再建案がまとまりませんでした。それだけ信徒の皆さんの教会に対する思いが強かった事が伺われますが、「一日でも早く再建を。しかし急いで進める事はせず、じっくりみんなの気持ちをまとめよう」」というスタンスで意見の集約が進められ、ようやく2002(平成14)年になって再建案がまとまりました。最終的には「やはり以前の姿が一番良かった」という意見でまとまり、寄付金も集まってきた事で2004(平成16)年にレンガ造りの懐かしい姿での再建を果たす事となりました。

 神戸栄光教会 の創始者であるランバス親子は関西の教育界にも大きな功績を残しています。1886(明治19)年にウォルター夫妻が開いた読書館は、のちのパルモア学院となり、原田の地に設立した関西学院は、のちに西宮市上ヶ原に移転して関西有数の私立総合大学へと発展していきました。関西学院大学と合併した聖和大学ランバス氏が設立したものです。





レンガ造りの美しい建築は「第19回神戸景観・ポイント賞」を受賞しました。


アクセス
・JR「元町駅」下車、北へ徒歩8分
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、西へ徒歩2分
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拝観料
・無料 (教会なので見学は控えめに)


神戸のハイカラ建築
石戸 信也
神戸新聞出版センター

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神戸・兵庫県公館。

2006年01月31日 | ■神戸市中央区


兵庫県公館

神戸市中央区下山手通4-4-1

第4代兵庫県庁舎



兵庫県公館の南門。夜にはライトアップされて幻想的な雰囲気を演出します。




 山手幹線を歩くと、兵庫県庁の南、神戸栄光教会の道を挟んだ南側に「モダン」な雰囲気を醸し出している建物が目に入ります。ここが「兵庫県公館」です。この建物は今を遡ること104年前の1902(明治35)年、文部省の建築家として数々の名建築を設計してきた山口半六氏の設計によって完成された近世フランスのルネッサンス様式の洋館です。この設計の依頼がきた1899(明治32)年当時、山口半六氏はすでに第一線を退いており、舞子に療養のために滞在していたそうです。病身をおして設計に取り組んだ山口半六氏ですが、残念ながら竣工を待たずに他界してしまいます。その遺志を継ぎ、山口半六氏のもとで指揮を執っていた秋吉金徳氏が陣頭指揮を執って、3年間の工事期間を経て見事完成させました。





1905年に完成した兵庫県公館。建物の前は花で埋め尽くされています。




 それまでの兵庫県庁は、現在の神戸地方裁判所のある場所にありましたが、ここが完成してからは第二次世界大戦時の神戸大空襲で建物内部を焼失するという大きな被害を乗り越え、1983(昭和58)年までずっと4代目の兵庫県庁舎として利用されてきました。そして、兵庫県庁舎としての使命を終えた2年後の1985年(昭和60年)には、1世紀近く市民に親しまれてきた外観をそのまま保存しつつ、レンガ壁を鉄筋コンクリートで補強。出来るだけ建築当時の姿に近付けるなど工夫を重ねてリニューアルされました。内装や外観は細かい部分まで明治の創建当初のかたちを再現し、国内外からの賓客をもてなすための迎賓館県政資料館という新しい顔を持つ「兵庫県公館」として再スタートを切りました。




 
敷地の西側にある県職員物故者慰霊碑(左)と東側にある和風迎賓館「楠園亭」(右)。
 
建築当初の意匠が再現された兵庫県公館の外観(左)と、公館の東にある庭園(右)。



アクセス
・神戸市営地下鉄山手線「県庁前駅」下車すぐ
・JR「元町駅」下車、北へ徒歩5分
兵庫県公館地図  【園内図】  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・県政資料館:平日9時~17時(土曜日10時~16時)
・迎 賓 館:土曜日10時~16時(年末年始除く)

公式サイト

※兵庫県ホームページ内:県政情報・統計>広報広聴>広報活動 >広報全般 >兵庫県公館


神戸・相楽園。

2006年01月30日 | ■神戸市中央区

相楽園

(そうらくえん)
神戸市中央区中山手通5-3-1






 兵庫県庁の1号館と2号館の間の道をまっすぐ北に上がると、おおきな木造の門が見えます。ここが相楽園です。神戸市立の公園の中で唯一池泉回遊式庭園を持つ公園で、約6,000坪の広さを誇る都心のオアシスです。

 相楽園はもともと、旧三田藩士だった小寺泰次郎氏がこの地に建てた邸宅の跡です。明治18年頃から建てられ始めた邸宅と庭園は、その後長男の小寺謙吉氏が引き継ぎ、明治の末期から大正初期に完成したといわれています。小寺謙吉氏は明治の末に衆議院議員として活躍した方で、終戦後は神戸市長に就任(選挙によって選ばれた初代の神戸市長)して戦後の神戸の復興に尽力された方です。そんな地元の名士だった小寺氏のお屋敷は、市民からは小寺邸もしくは植えられていたソテツにちなんで蘇鉄園とよばれていました。

 小寺邸は1941(昭和16)年に神戸市に譲渡され、春と秋の2回有料で市民に公開されるようになりました。相楽園という名がつけられたのはこの時のことです。当時の豪華な邸宅や建築物は、神戸大空襲によって大部分が破壊されてしまい、今では厩舎だった建物や塀など一部しか残っていません




旧小寺家厩舎。厩舎とはいえ、かなりの大きさです。



 相楽園にはもう一つ有名な建物があります。それがハッサム邸です。この邸宅は、インド系イギリス人だった貿易商のJ=K=ハッサム氏が住んでいたお屋敷です。もともと異人館で有名な北野の高台に明治35年頃に建てられたものでした。

 1963(昭和38)年には当時の所有者だった神戸回教寺院から神戸市に寄贈されることとなり、その2年後に現在の相楽園内に移築されました。木造の2階建てで、ベランダがあったり鎧戸があったりと当時の異人館の様子を伺い知ることの出来る貴重な建築物でした。ちなみに庭に立っている2本のガス灯は、19世紀末に設置されたもので、現存する最古のものだそうです。阪神・淡路大震災では、このハッサム邸もレンガ造りの煙突が階下に落下するなどの被害を受けましたが、無事修復されて今も相楽園の北にどっしりと構えています。




1961年6月重要文化財に指定。正式には「旧ハッサム住宅」



 相楽園の庭園は、大きな池泉(庭園に造られた池のこと)の周りを歩きながら景色を楽しむことの出来る、池泉回遊式庭園です。様々な植栽や石組み、優美な曲線の道や建物が組み合わされ、一日のんびりお茶でも飲みながら過ごしたい気分になります。池泉の脇には、この景色を一望できる茶室浣心亭が復元され、優雅にたたずんでいます。




庭園への入り口



池泉にうつる浣心亭。うつりこんだ空とともに深みを感じます。




 相楽園の庭園には浣心亭以外にも忘れてはならない建物があります。それが船屋形です。船屋形は、江戸時代に姫路藩の藩主が遊覧用に使っていた「川御座船」の屋形部分です。17世紀の末に作られたといわれるこの船は屋形の部分だけが保存され、所有者を転々としていたのですが1977(昭和52)年に神戸市に寄贈され、その3年後には相楽園に移築されたそうです。漆塗りや金箔飾りなど豪華なつくりで、当時の川御座船の面影を残す唯一のものだそうです。




金箔がまぶしい船屋形。



船屋形の脇から撮った池泉。きれいな空です。




アクセス
・神戸市営地下鉄「県庁前駅」下車、北へ徒歩3分
・JR「元町駅」下車、北西へ徒歩10分
・阪神電車「元町駅」下車、北西へ徒歩10分
相楽園地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・大人300円 小人150円

拝観時間
・9時~17時(入園受付は16時30分まで)


兵庫県の日本庭園―歴史と美を訪ねて
西 桂
神戸新聞総合出版センター

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神戸・走水神社。

2006年01月08日 | ■神戸市中央区
五穀豊穣・学業成就・厄除開運・家内安全


走水神社

(はしうどじんじゃ)
神戸市中央区元町通5-6-1




元町商店街を1本南に下った道路沿いにあります。


〔御祭神〕
天照大御神
(あまてらすおおみかみ)
応神天皇
(おうじんてんのう)
菅原道真公
(すがわらのみちざね)


 JR元町駅を南に下り、大丸神戸店あたりまで歩いてくると、西側にアーケードに覆われた商店街が見えてきます。この商店街の名は、元町商店街。東西1.2kmに渡る長いエリアには舶来雑貨の店や洋服店、喫茶店やスイーツの店など、ハイカラな神戸の雰囲気を色濃く残す数多くの名店が軒を連ねています。この商店街の西端、かつて三越神戸店があった辺りを1本南に下った東西の通り沿いに、つつましく立つ1つの神社があります。この神社の名前は走水神社菅原道真公と天照大御神、そして応神天皇を祀る古社で、「書道の神様」としてもよく知られています。ちなみに東西に長い元町商店街では、エリアによってそれぞれ氏神が異なり、西側に位置する元町通5丁目から6丁目付近はこの走水神社を氏神としています。そこから東に進むにつれて、元町通4丁目付近は花隈町に鎮座する厳島神社を、さらに元町通3丁目から東のエリアは大丸神戸店の東に鎮座する三宮神社を氏神として祀っています。





戦争による空襲で焼失した社殿は、1958(昭和33)年6月に再建されました。



 走水神社は旧走水村の氏神で、社伝によると1100年以上もの長い歴史を持つと古社だといわれています。社殿の脇には、筆塚や狛牛が建てられているなど菅原道真公の色合いの濃い神社で、1月18~19日に行われる厄除祭と7月24日から25日にかけて行われる天神祭では、日頃は静かな境内が賑やかな雰囲気に包まれます。この地は、無実の罪で左遷されて失意のうちに大宰府へと向かっていた菅原道真公が立ち寄って村人たちと交流した場所だといわれており、その高徳を偲んだ人々が祠を建立して天神社としたのが始まりだといわれています。

 元町商店街は、昔の西国街道にあたり、東から神戸村二ツ茶屋村、そしてこの走水村で構成されていました。商店街にある「二ツ茶屋」はこの旧地域名にちなんだもので、1874(明治7)年に行われた町名の改定によって消滅した走水村の名前も走水神社に名残りをとどめています。明治維新の頃までは元町5丁目の山側に極楽寺八幡神社があったため、この一帯は八幡町と呼ばれていました。この八幡神社は、戦国時代の1567(永禄10)年に織田信長公旗下の武将・荒木村重公が花隈城を築城した際、城の搦手にあたる場所に勧請して創建されたものだといわれています。1875(明治8)年になり、現在の場所に鎮座していた天満宮とこの八幡神社が合祀され、前年の町名改定によって消滅した走水村の名にちなんで走水神社と呼ばれるようになりました。





「天神さん」特有の狛牛(左)と、稲荷大明神と白竜大明神を祀る稲荷神社(右)。



 兵庫県神戸市中央区は、奈良時代には現在の西宮市を流れる夙川から神戸市の生田川までの一帯が菟原郡(うはらぐん)、生田川
から須磨までの一帯が八部郡(やたべぐん)という行政区に分けられていました。東灘区にあるJR住吉駅の南には「うはらホール」という名の区民ホールがあり、旧名の名残りを残しています。生田川より西側の八部郡には、生田郷神戸郷宇治郷という3つの郷がありました。このうちの宇治郷に流れていた川は宇治川と呼ばれていました。宇治川は1938(昭和13)年の阪神大水害を契機に改修工事が行われて暗渠化され、現在は山手幹線を越える辺りから宇治川商店街の地下を流れ、神戸ハーバーランドの東側に流れる川となっています。

 この宇治川の流れが「走水」という名前の由来となったといわれています。宇治川は雨が降るたびに河水が渦巻くように流れ、流域の村に様々な被害をもたらしてきました。この村はいつの頃からか川の流れを表す「走り渦」にちなんで走水村と呼ばれるようになったといわれています。「はしうど」の名の由来にはもう一つ説があり、12世紀末の寿永年間(1182~1183年)の頃からこの地域に住みついていた、天皇に仕える氏族・「間人氏(はしうどし)」の名に後年「走水」の字があてられて地名となったという説が残されています。





商店街へと抜ける東側石段付近にある、水の枯れた手水鉢(左)と立派な筆塚(右)。


アクセス
・阪神電車「西元町駅」下車、南東へ徒歩2分
・阪急「花隈駅」下車、南へ徒歩4分
・神戸市営地下鉄海岸線「みなと神戸駅」下車、西へ徒歩2分
走水神社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.


拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にも同様の内容を投稿させていただきました。

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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神戸・湊川神社。

2005年11月13日 | ■神戸市中央区
国家安泰・開運招福・厄除け・家内安全・交通安全

湊川神社

(みなとがわじんじゃ)
神戸市中央区多聞通3-1-1

神仏霊場兵庫 豊饒の道・第5番札所
KOBE七福神・毘沙門天

通 称
楠公さん
(なんこうさん)



銅葺きの表神門。



〔御祭神〕
楠木正成公



 JR神戸駅から北に向かうと、銅葺きの立派な表神門が目に飛び込んできます。この神社は、国家に多大な貢献のあった人物を祀る神社に与えられる別格官幣社にも列せられた湊川神社。室町時代の南北朝の騒乱の中、後醍醐天皇に忠節を尽くして奮闘した南朝方の名将・楠木正成公を祀った神社で「楠公さん」の愛称で親しまれ、生田神社長田神社と並んで「神戸三社」のひとつとして厚い崇敬を集め、初詣の際には約100万人の参拝客で賑わいます。周辺には「楠町」「多聞通」「橘通」など、楠公さんにまつわる地名が残っていて、いかに地域に密着し愛されていた神社であるか実感することが出来ます。




 
クスノキに囲まれた参道(左)と、参道脇に鎮座する楠本稲荷神社(右)。



 湊川神社の神社としての歴史は意外と浅く、創建は約140年前の1872(明治5)年。ここには楠木正成公やその子・楠木正行公を含む17名が祀られています。主祭神である楠木正成公は河内国に本拠地をおいた豪族で、南北朝の騒乱では後醍醐天皇率いる南朝側に付いて挙兵し鎌倉幕府の打倒に貢献しました。兵法・知略に優れ、上赤坂城千早城に拠って僅かな手勢ながら知略を尽くして幕府方の大軍を翻弄するなど、倒幕に大きく貢献しました。

 その後、後醍醐天皇による「建武の新政」が行われましたが、やがて不公平な施政方針に対する武士たちの不満が爆発、足利尊氏公を中心に武装蜂起が起こります。一度は敗れて京都から西へと撤退した足利尊氏公は九州で軍勢を建て直して攻勢に転じます。京都へと向けて進撃する足利尊氏軍を湊川の地で迎え撃った楠木正成公は新田義貞公らとともに奮戦しますが、圧倒的な戦力を誇る足利尊氏公の軍勢の前に善戦するも敗北。ついに1336(延元3/暦応元)年5月25日、弟・楠木正季公や息子・楠木正行公ら一族とともに湊川の森で自刃し、波乱の生涯を閉じました。





1952(昭和27)年再建の社殿。近年、屋根の葺き替えが行われました。



 楠木正成公の忠節を慕った地元の人々は、無念の自刃を遂げた湊川の地に供養の塚を作り、大切に守り伝えてきました。江戸時代、「皇室の正統は南朝方である」という史観をもとに南朝方の忠臣の顕彰を進めていた"水戸黄門"こと水戸光圀公は、「楠木正成こそ南朝最大の功臣」と評価、1692(元禄5)年に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻文された顕彰墓碑を楠木正成ゆかりの湊川の地に建立しました。水戸光圀公自身は現地に足を運ぶことはありませんでしたが、名代として「助さん」の名で知られる佐々介三郎宗淳公が来神し、建碑の工事監督を務めています。1955(昭和30)年には、この碑の隣に水戸光圀公の銅像が建てられています。




 
社殿の左奥にある楠公自刃の地・湊川の森(左)。右は社殿東隣にある菊水天神社。



 幕末には天皇に忠誠を尽くした偉人の墓として多くの勤皇志士がここを訪れ、明治維新後には天皇中心の国づくりを進める国策の一環として、明治天皇の勅命により多額の資金を投じて1872(明治5)年5月24日に湊川神社が創建されました。社名に関しては他にも「大楠霊神社」や「南木神社」などの候補が提案されていましたが、地名を用いるほうが覚えてもらいやすいという理由で「湊川神社」に決定されました。

 先の大戦の際には神戸大空襲によって境内全域が焼失しましたが、1952(昭和27)年10月24日には戦後の困難な時期にも関わらず、氏子の方々の篤志と国の援助によって本殿と拝殿が再建されて遷宮祭が執り行われました。しかしながら、近年は再建から半世紀が経って老朽化が目立つようになり、2007(平成19)年より社殿や各門の改装が進められています。




 
水戸光圀公が建立した「嗚呼忠君楠子之墓」(左)と、隣接する水戸光圀公像(右)。



 東門を入ったところにある神能殿。この建物は「御鎮座百年祭」の記念事業の一環として1972(昭和47)年に建てられたものです。御祭神・楠木正成公の妹が能楽の祖・観阿弥の母親だったという伝説が縁で、ちょうど建て替えを計画していた観世流の能楽堂を譲り受け、東京から移築されてきました。この能楽堂に関しては、ぜひ譲って欲しいという希望が他にもいくつかあったそうですが、交通の要衝にありながら文化が育ちにくい神戸の地に能楽堂を置くことで伝統文化への親しみと理解を深めたいという思いから、先代の第25世観世左近氏が敢えて神戸にある湊川神社の境内を選んだそうです。




 
東門の脇に立つ収容人員500名の神能殿(左)と、その南にある兵庫県神社庁(右)。


アクセス
・神戸高速鉄道「高速神戸駅」下車すぐ
・JR「神戸駅」下車、北へ徒歩5分
・神戸市営地下鉄「大倉山駅」下車、南へ徒歩3分
湊川神社地図  【境内MAP】 Copyright (C) 2000-2009 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・日の出から日没まで

公式サイト