日本に住んでいると雨を避けて暮らすのはとても難しい。
梅雨のジメジメした感じ、秋雨の肌寒い感じ、春雨や夏の夕立ちなど季節の移ろいと雨は切っても切り離せない。
今や、亜熱帯と呼んでも差し支えないほどに蒸し暑くなってきた日本では梅雨どきの雨はそれほど心地良いものではない。
雨が続き、ずーっと曇り空ばかりの毎日では気持ちも鬱屈とするし、なかなか気が晴れない。これは今私が住んでいるアメリカでも同じだ。特に晴れた空が気持ちの良いカリフォルニアで毎日曇り空や雨が続くと、本当にどんよりとした気持ちになってしまう。
そんな雨に対するネガティブな印象を不思議と全く感じさせず、雨が降るのもまた一興、と思わせてくれる映画が「言の葉の庭」だ。
日進月歩、情報過多の現代社会では人々は日々を忙しく過ごすあまり、立ち止まってゆっくり考える暇は無いし、空き時間には暇があればスマホを弄り、いつでも忙しく生きている人が多いだろう。
のんびりと雨が止むのを雨宿りして待つこともそもそもなかなか無いだろう。
しかし、人生でうまくいかない時に人は立ち止まってゆっくり考えた方が物事が好転する、という時もある。
ふとしたきっかけで雨は止んで、雨宿りは終わる。居心地の良い東屋から出なくてはならない時は必ずやってくる。止まない雨はないのだ。
この映画の主要登場人物は2人しかおらず、非常に小さな世界と場所で話が展開する。
新宿御苑の公園の屋根のあるスペースで雨宿りする時だけ一緒に時間を過ごす間柄。
お互い名前も聞かず、名乗らず、でもそんな時間が心地良く、少しずつ距離が縮まっていく。
スマホやSNSやらで出会いもコンビニのようにお手軽になってしまった現代ではこの言の葉の庭のような状況はなかなか「考えづらいシチュエーション」。
しかし、とことん奥手な2人が言葉を訥々と交わしていく様は現代劇にも関わらず、普遍的な人と人との心の交流とはどういうものなのかを考えさせる描写。
この映画は45分と短く、終盤、泣かせる展開が訪れる一方で、この2人のその後は映画内では明快には語られない。(原作となる小説では数年後の「その後」も描かれている。)
ともすれば、主人公の兄が作中でも少し口にするように、15-6歳の頃の夢や片思いなどというのはしょっぱいもの、と世の中の相場は決まっているわけだが、そんなほろ苦さ全開の展開が終盤には待っている。が、観賞後は2人が持てる気持ちを激しくぶつけ合ったあとだからこそ、どこか清々しさを感じるのだから面白い。
これは今や日本を代表するヒットメーカーの1人となった新海誠監督作品の特色とも言えるが、東京の街や雨の描写がいちいち美しい。
新緑の季節を経て、青青とした柳の木の葉が水面に映り、その水面に雨がポツポツと降り続き、不規則なグラデーションを描く水面を映し続けてもずっと観ていたくなるほどに美しい。
現実の新宿はこれほどまでに綺麗な世界ばかりでない。ホームレスもたくさんいるし、雨に濡れた路地はもっと黒ずんでるし、ビルの谷間もどよんとしてるだろう。
しかし、この映画ではそうした「新宿の暗部」は描かれない。
(この映画の後に新海誠監督の2019年公開作である「天気の子」ではしっかりと新宿や大都会東京の「暗部」が描かれるのは面白い変遷ではある。)
ひたすらに美しい庭園と雨の風景が短い上映時間の中で鮮烈な印象を残しながら、目の前を通り過ぎていく。
東屋(屋根付きベンチ)に一旦入るとそこは不思議と雨がまるでカーテンか見えない壁のように2人の空間を切り取って特別な時間が流れる。こうした空間描写、そして人と人との距離感の描写が抜群に優れており、少しずつ縮まる距離、でも決して縮まらない関係が刻々と描かれるのが心地良くもある。
実はお話を見終わって感じたのは「耳をすませば」との類似だったりもする。
耳をすませばでは単に本が好きで仲間内で作詞をしていい気になっていた雫が、既に将来を見据えてバイオリン作りを目標にして奮闘している天沢聖司になんとか追いつこうとして受験勉強もほったらかしにして小説を書いてもがき続けるが、結局、自分の才能ではなくスキルが圧倒的に足りていないことを自覚する。2人は思いが繋がり合う一方で、お互いの夢に向かって邁進していく。
耳をすませばでは、未来に向かって駆け出す2人を描いて明るく終わっているが、やはり作品中での雫の葛藤が淡く切ない感じがする。雫が涙ながらに自分の作品を読んでくれた天沢聖司の祖父に訴えかけるシーンはまさに青春と呼んで差し支えないほろ苦さと荒削りの若々しさが感じられてハッとさせられる。
言の葉の庭ではタカオがまさに鬱屈した退屈な日常で唯一自分が熱中できること、夢に向かって必死になって靴を作るわけだが、女性の足も知らずに靴を作る難しさを知り、採寸までしてもやはり自分が作った靴の質には納得がいかない様子が描かれる。原作小説ではさらにその後、修行に出る。ユキノが自分ではその時点では手の届かない位置にいることを改めて確認して自分なりにきちんとユキノに見合う人になろうとするのだと思う。
勿論、耳をすませばと言の葉の庭では、主人公の性別や世相、舞台となる場所、相手の年齢や置かれている立場は異なるわけだが、年齢は近しいし、夢に向かってなんとか独学で夜鍋して机に向かって奮闘する様はまさに似た情熱を感じさせるのだ。そして、情熱を持ち続け夢に向かって諦めずに向かっていく様もまた似ているのだと思う。
大きな違いは天沢聖司とユキノのキャラ造形の違いであろう。現代社会東京で現実味があるのは実はユキノではあり、若くしてバイオリン作りを目指し、読書家であり、最初から雫に想いを寄せている天沢聖司には雫から見ればは「完全無欠感」がある。
「生徒からいじめに遭うのが辛くて職場に行かず、朝から新宿御苑の東屋でビールとチョコレートを楽しむ料理の苦手なアラサー女子」であるユキノはかなりヤンチャだ。しかし、暗い影をタカオの前では殆ど感じさせない。ただ、実際には典型的なダメンズならぬダメ女であり、取り柄があるようには見えない。タカオから見てもそこまで魅力に感じられる要素は無いようにも思う。終盤、タカオから思いを告げられても、ユキノがタカオを遠ざける展開は実はそういう意味では理には適っているように思う。12歳も歳が離れていて、しかも教師と生徒という関係であれば尚更ではあるだろう。
結果的には映画の作中ではユキノは四国に帰り、タカオはユキノを思って作った靴を渡せないまま、ユキノとは文通を続けており、そして、自分が納得できるようになれば…と作品は幕を閉じる。
一時の雨宿りが生み出した世界はとても儚く、刹那的な瞬間でもあり、そして、その濃密で閉じた東屋の空間は最後には清々しく何事も無かったかのように幕を閉じる。明日も変わらず、新宿御苑に東屋はあるだろうが、その頃の淡い恋心が交錯した雨宿りは終わり、きっとまた2人の道は交差するのだろう。
甘酸っぱいこの映画のラストに明るい希望が持てるのは、ユキノにとっては東屋の空間やタカオとの時間はあくまでも逃避した先にあった刹那的なものであって、あの場にいる限りは彼女は前には進めなかったわけで、ユキノにとっても、タカオにとっても、前向きに話が展開したからなのだと思う。
梅雨のジメジメした感じ、秋雨の肌寒い感じ、春雨や夏の夕立ちなど季節の移ろいと雨は切っても切り離せない。
今や、亜熱帯と呼んでも差し支えないほどに蒸し暑くなってきた日本では梅雨どきの雨はそれほど心地良いものではない。
雨が続き、ずーっと曇り空ばかりの毎日では気持ちも鬱屈とするし、なかなか気が晴れない。これは今私が住んでいるアメリカでも同じだ。特に晴れた空が気持ちの良いカリフォルニアで毎日曇り空や雨が続くと、本当にどんよりとした気持ちになってしまう。
そんな雨に対するネガティブな印象を不思議と全く感じさせず、雨が降るのもまた一興、と思わせてくれる映画が「言の葉の庭」だ。
日進月歩、情報過多の現代社会では人々は日々を忙しく過ごすあまり、立ち止まってゆっくり考える暇は無いし、空き時間には暇があればスマホを弄り、いつでも忙しく生きている人が多いだろう。
のんびりと雨が止むのを雨宿りして待つこともそもそもなかなか無いだろう。
しかし、人生でうまくいかない時に人は立ち止まってゆっくり考えた方が物事が好転する、という時もある。
ふとしたきっかけで雨は止んで、雨宿りは終わる。居心地の良い東屋から出なくてはならない時は必ずやってくる。止まない雨はないのだ。
この映画の主要登場人物は2人しかおらず、非常に小さな世界と場所で話が展開する。
新宿御苑の公園の屋根のあるスペースで雨宿りする時だけ一緒に時間を過ごす間柄。
お互い名前も聞かず、名乗らず、でもそんな時間が心地良く、少しずつ距離が縮まっていく。
スマホやSNSやらで出会いもコンビニのようにお手軽になってしまった現代ではこの言の葉の庭のような状況はなかなか「考えづらいシチュエーション」。
しかし、とことん奥手な2人が言葉を訥々と交わしていく様は現代劇にも関わらず、普遍的な人と人との心の交流とはどういうものなのかを考えさせる描写。
この映画は45分と短く、終盤、泣かせる展開が訪れる一方で、この2人のその後は映画内では明快には語られない。(原作となる小説では数年後の「その後」も描かれている。)
ともすれば、主人公の兄が作中でも少し口にするように、15-6歳の頃の夢や片思いなどというのはしょっぱいもの、と世の中の相場は決まっているわけだが、そんなほろ苦さ全開の展開が終盤には待っている。が、観賞後は2人が持てる気持ちを激しくぶつけ合ったあとだからこそ、どこか清々しさを感じるのだから面白い。
これは今や日本を代表するヒットメーカーの1人となった新海誠監督作品の特色とも言えるが、東京の街や雨の描写がいちいち美しい。
新緑の季節を経て、青青とした柳の木の葉が水面に映り、その水面に雨がポツポツと降り続き、不規則なグラデーションを描く水面を映し続けてもずっと観ていたくなるほどに美しい。
現実の新宿はこれほどまでに綺麗な世界ばかりでない。ホームレスもたくさんいるし、雨に濡れた路地はもっと黒ずんでるし、ビルの谷間もどよんとしてるだろう。
しかし、この映画ではそうした「新宿の暗部」は描かれない。
(この映画の後に新海誠監督の2019年公開作である「天気の子」ではしっかりと新宿や大都会東京の「暗部」が描かれるのは面白い変遷ではある。)
ひたすらに美しい庭園と雨の風景が短い上映時間の中で鮮烈な印象を残しながら、目の前を通り過ぎていく。
東屋(屋根付きベンチ)に一旦入るとそこは不思議と雨がまるでカーテンか見えない壁のように2人の空間を切り取って特別な時間が流れる。こうした空間描写、そして人と人との距離感の描写が抜群に優れており、少しずつ縮まる距離、でも決して縮まらない関係が刻々と描かれるのが心地良くもある。
実はお話を見終わって感じたのは「耳をすませば」との類似だったりもする。
耳をすませばでは単に本が好きで仲間内で作詞をしていい気になっていた雫が、既に将来を見据えてバイオリン作りを目標にして奮闘している天沢聖司になんとか追いつこうとして受験勉強もほったらかしにして小説を書いてもがき続けるが、結局、自分の才能ではなくスキルが圧倒的に足りていないことを自覚する。2人は思いが繋がり合う一方で、お互いの夢に向かって邁進していく。
耳をすませばでは、未来に向かって駆け出す2人を描いて明るく終わっているが、やはり作品中での雫の葛藤が淡く切ない感じがする。雫が涙ながらに自分の作品を読んでくれた天沢聖司の祖父に訴えかけるシーンはまさに青春と呼んで差し支えないほろ苦さと荒削りの若々しさが感じられてハッとさせられる。
言の葉の庭ではタカオがまさに鬱屈した退屈な日常で唯一自分が熱中できること、夢に向かって必死になって靴を作るわけだが、女性の足も知らずに靴を作る難しさを知り、採寸までしてもやはり自分が作った靴の質には納得がいかない様子が描かれる。原作小説ではさらにその後、修行に出る。ユキノが自分ではその時点では手の届かない位置にいることを改めて確認して自分なりにきちんとユキノに見合う人になろうとするのだと思う。
勿論、耳をすませばと言の葉の庭では、主人公の性別や世相、舞台となる場所、相手の年齢や置かれている立場は異なるわけだが、年齢は近しいし、夢に向かってなんとか独学で夜鍋して机に向かって奮闘する様はまさに似た情熱を感じさせるのだ。そして、情熱を持ち続け夢に向かって諦めずに向かっていく様もまた似ているのだと思う。
大きな違いは天沢聖司とユキノのキャラ造形の違いであろう。現代社会東京で現実味があるのは実はユキノではあり、若くしてバイオリン作りを目指し、読書家であり、最初から雫に想いを寄せている天沢聖司には雫から見ればは「完全無欠感」がある。
「生徒からいじめに遭うのが辛くて職場に行かず、朝から新宿御苑の東屋でビールとチョコレートを楽しむ料理の苦手なアラサー女子」であるユキノはかなりヤンチャだ。しかし、暗い影をタカオの前では殆ど感じさせない。ただ、実際には典型的なダメンズならぬダメ女であり、取り柄があるようには見えない。タカオから見てもそこまで魅力に感じられる要素は無いようにも思う。終盤、タカオから思いを告げられても、ユキノがタカオを遠ざける展開は実はそういう意味では理には適っているように思う。12歳も歳が離れていて、しかも教師と生徒という関係であれば尚更ではあるだろう。
結果的には映画の作中ではユキノは四国に帰り、タカオはユキノを思って作った靴を渡せないまま、ユキノとは文通を続けており、そして、自分が納得できるようになれば…と作品は幕を閉じる。
一時の雨宿りが生み出した世界はとても儚く、刹那的な瞬間でもあり、そして、その濃密で閉じた東屋の空間は最後には清々しく何事も無かったかのように幕を閉じる。明日も変わらず、新宿御苑に東屋はあるだろうが、その頃の淡い恋心が交錯した雨宿りは終わり、きっとまた2人の道は交差するのだろう。
甘酸っぱいこの映画のラストに明るい希望が持てるのは、ユキノにとっては東屋の空間やタカオとの時間はあくまでも逃避した先にあった刹那的なものであって、あの場にいる限りは彼女は前には進めなかったわけで、ユキノにとっても、タカオにとっても、前向きに話が展開したからなのだと思う。