Kennyのブログあれこれ

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プリズン・ギャング(バタス)

2010-12-19 22:56:10 | 日記
12月20日(月曜日)

昨日に続いて、今日は告別式で忙しい。
カミさんは実母のため、着物を着るので一人先に朝6時に出かけた。
私は長男(孫にあたる)と孫(ひ孫)と一緒に8時30分に出かける。

女房の実家は山の中の農家で良くはわからないが代々が古い家系。
お墓の石碑に刻まれている戒名の数を数えていくと
これだけで250年は経過している。その前が同じ程度有るらしいが・・・
親戚がやたらと多い。今日も多分時間がかかりそうだ。
親父が亡くなった時は700人以上の方がこられたが、今回は少ないと思う。


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昨日 モンテンルパの刑務所について書いたので関連する記事を載せる。
下記のURLを!
http://www.cyzo.com/2010/06/post_4679.html


「プリズン・ギャング」という言葉をご存知だろうか。
「刑務所で麻薬やギャンブル、暗殺までも手掛ける、
 囚人による囚人のための秘密組織」だ。
 この本『バタス――刑務所の掟』は、2万人超の囚人を抱える
 フィリピン最大の刑務所に19年間服役し、プリズン・ギャングの頂点に
 上り詰めた日本人の記録である。

 男の名は、大沢努。高校卒業後、旅行代理店に勤めていた彼は、 
 1975年、23歳の若さで独立し、フィリピンで日本人相手の買春ツアーに力を注いだ。
 が、78年にパサイ市の置屋に嵌められ拳銃不法所持で逮捕。
 父親が金を工面し無罪放免となるも、勘当される。
 日本へ戻った大沢は、フィリピン・コネクションを活かし多くの
 「ジャパゆき」さんを入国させ、80年に再度マニラへ渡った。


 先の逮捕を機に、大沢は政治の世界に関心を持つようになっていた。
 現地の有力者のツテを手繰り、「大沢は政府要人に次々と食い込み、
 もはや拳銃不法所持で逮捕される立場ではなくなっていく」。

〈フィリピンでは、人脈が総ての社会だと大沢は言う。
 人脈とは、知人でなく家族だ。「知り合い」の名称は金で買えるが、
 家族は汗と肉体でしか購えないとも〉

 大沢は労を惜しまず己の肉体を差し出し(文字通り肉体労働)、
 時の独裁者・マルコス大統領の「家族」として認められる。
 しかし、のちにそれが仇となった。

 86年5月、大沢は日本人観光客の「営利誘拐、不法監禁」の罪で再び逮捕。
 この年の2月、マルコス政権はエドゥサ革命により打倒されている。
 大沢の逮捕は、警察内のアキノ派にとって好都合だった。「腐敗しきったマルコス残党」は
 死刑宣告を受け、モンテンルパ刑務所に収監
 (※87年に死刑制度は撤廃され、大沢は無期懲役となる)。

 刑務所の均衡は、12ものプリズン・ギャングのコマンダー(ボス)と
 刑務局の折衝により保たれていた。そして「モンテンルパでは生活に纏わるあらゆる部分で、
 まさに社会と同じように金がかかる」。
 逆にいえば、金さえあれば覚醒剤だろうが商売女だろうが手に入らないものはなかった。
 ゆえに、ほとんどの囚人は金を稼ぐために仕事をする。
 彼らの主な収入源である粗悪なハンディ・クラフトに、大沢は目を付けた。
 まず腕利きの職人を集めて品質を向上させ、顧客を日本人に絞り、
 遂には企業向けの輸出ルートを開拓したのだ。

 この新ビジネスはモンテンルパの最大組織・スプートニクにも大きな利益をもたらし
 以後、大沢は着々と幹部らの信頼を得ていく。
 さらに覚醒剤の流通経路も押さえ、スプートニク全体を潤すビジネスモデルをも構築した。

 当然、全てが順調だったわけではない。ここは塀の中。抗争、拷問、殺人、何でもありの、
 金と暴力が支配する世界である。本書には凄惨な事件の数々も生々しく描かれている。
 敵対するギャングと一触即発の緊張状態に陥り、武装した囚人がたむろする
 棟舎に命がけの交渉に出向いたこともあったし、覚醒剤の利権争いもした。
 幾度となく逆境に立たされながら、大沢は知恵を絞り、密造酒や菜園など
 新たな商売を捻り出した。かくして93年4月、大沢はスプートニクのコマンダーに任命され   た......駆け足で要約してみたが、コマンダー在任中も、そして引退後も、
 大沢は辣腕を振るい続けた。

〈何事も、一度やると決めた以上は徹底的にというのが、
             モンテンルパで確立した生き抜くための智恵である〉

 本書に収められているのは、著者・藤野眞功氏の綿密な取材に基づいた、
 誠実な"事実"の積み重ねである。大沢はご立派な人格者でもヒーローでもない、悪党だ。
 本書には生身の悪党が描かれており、そこに人はしびれる。

 05年2月9日、大沢はモンテンルパ刑務所から出所した。
 20年ぶりに祖国に降り立ち、向かった先は、母親の待つ浦安の実家
 (父親は大沢の服役中に亡くなっている)。
「フィリピン人よりフィリピン人らしく」振る舞い、
 史上初の外国人コマンダーになった男は、現在もそこで母親とふたり暮らしをしているという。
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・藤野眞功(ふじの・みさを)
 1981年、大阪市生まれ。成蹊大学卒業後、
 出版社勤務を経て著述業。週刊誌を中心に活動し
、「Number」「en-taxi」などでルポルタージュ。
 文藝評論を発表している。著書に『FBI特別捜査官』(日本文芸社)がある。


モンテンルパ

2010-12-19 08:42:20 | 日記
12月19日(日曜日)

天気が良くて助かる。
本日はこれから義母のお通夜に出かける。
午後2時頃から納棺になるので、
11時頃、孫を連れて3人で行く事になる。
インフルエンザにかかってしまったママさんは自宅療養
奥秩父は今時は熊谷と比ると4~5度も低く寒い!厚着をする。
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昨日のニュースでフィリピンの刑務所に収監されていたS氏が
恩赦で釈放されたと報じていた。

http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2004/435.html
懲役のない刑務所 ~フィリピンの日本人死刑囚~
2004年10月13日(水) 03:00~03:55 放送
詳細は上記URLを見るとよくわかる。
信じがたいが現実である。

とにかく海外では見知らぬ人からは絶対お土産をもらったり預かったりはしない事。
小さいお土産小箱は特に危ないので要注意。
間違ってでも囚人になった場合、財産は全部無くなるまでつぎ込むことになる。

1996~2003年頃にかけてフィリピンには何回か仕事の関係でマニラから
北にあがったタルラックという地区に行っていた事がある。

この国は日本の戦後の数年間の状況がズーット続いている感じである。
私はこの国をそれほど嫌いではないが、もう少し渋滞と美観をなんとかしてほしい。
マニラに滞在することも多く、その昔幼い時期に聞いた唱 渡辺はま子さんの
”モンテンルパの夜は更けて”を思い出して


一度はフィリピンのモンテンルパに行ってみたかったので
休日を使って1999年に行ってみた。ギラギラする灼熱の暑さである。
昔の戦犯刑務所である。
(最近、斎藤由貴が渡辺はま子役を演じている劇をTVでみた。)
今はフィリピンの刑務所として実際に使われているが。

その実態はお金と掟の世界。お金がないと囚人は死を意味する。
中に入りたかったので看守に握手しながらP200ペソを渡し(多すぎたかな!当時600円程)、
案内を頼んだらライフル銃を小脇に抱え快く屋上まで案内された。
一寸怖かった、所長ともすれ違ったが看守の案内で動いているので問題ない。
(私がフィリピーノにみえたのかな?)
上からのぞく刑務所は結構広い200m区画は有りそうだった。
なにか観光化されてる感じもあり、一寸イメージとは違った事を思い出す。
この時看守が、今日本人の囚人鈴木というのがここにいると言ったのが生々しく覚えている。又お金さえあればエアコン付きの部屋も、女性の出入りもOKとニタリと笑って言った!
多分その方が釈放されたのだろう。

-------歌詞----
モンテンルパの 夜は更けて
つのる思いに やるせない
遠い故郷を しのびつつ
涙に曇る 月影に
優しい母の 夢を見る

燕はまたも 来たけれど
恋し吾が子は いつ帰る
母の心は ひとすじに
南の空へ 跳んでいく
さだめは悲し 呼子鳥

モンテンルパに 朝が来りや
登る心の 太陽を 
胸に抱いて 今日もまた
強く生きよう 倒れまい
日本の土を 踏むまでは
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薬師丸ひろ子さん主演のスペシャルドラマ
戦場のメロディ ~108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌~
フジテレビ(2009年9月12日)
ああモンテンルパの夜は更けて

戦地の慰問をする渡辺はま子役の・・

フィリッピンの「モンテンルパの刑務所」!
戦犯として収容され処刑の恐怖に怯える受刑者
心配をする家族やその受刑者達の苦難を乗り越えて慰問に訪れ
108名の命を救った渡辺はま子さんの物語。実話

渡辺はま子さんといえば「支那の夜」「蘇州夜曲」などのヒット曲があります。
「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌も良く知っていました。
この歌の作詞・作曲が戦犯として処刑されるはずだった受刑者のもので
曲の陰には辛く悲しい思いが込められていたことを随分昔に親から聞いていました。


私はテレビの前で涙をこらえていました。