稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№110(昭和62年12月1日)

2020年04月27日 | 長井長正範士の遺文


これには一同ぐうの音も出ず感服したのです。こうしてやっと島原のいろ里に着いたのであります。一行は宗匠を丁重にもてなし、島原で一番人気のある若い花魁をあてがいました。そして恐らく今時分愛情の最中であろうと、時期を見まして、無粋にも本部屋の襖をがらりと開け、花魁の上になっている宗匠に、さあ、この有様を詠んで頂きたい。と言った途端、宗匠は

「くみしいて、見れば二八の小敦盛 眉毛少々 薄毛ちらほら」

と、恥ずかしげな態度も見せず、ズバリと詠われたのであります。

即ち、戦場で敵の敦盛少将を組み敷いて、よく見ると、まだ毛も生え揃ってない可愛い二八(十六才位)の少年であったわい。という意味で、この花魁の上になって、よくよく見ると、眉毛も少々でまだあどけない十六才ぐらいの可憐な娘(こ)で小さく、ふっくらと盛り上がった女性自身も可愛らしく、まだ毛もろくさま生えておらず、薄い毛がちらほらと生えている程度で、如何にもいじらしい娘(こ)ですこと。とひっかけて言ったのです。小敦盛=

小さい敦盛=小さく盛り上がった女性自身。眉毛少々の少々=敦盛少将。薄毛ちらほら=敦盛少将の眉毛も、まだ一人前の大人のように黒々と立派に生え揃っておらず、うぶ毛のような薄い毛である=花魁の女性自身の毛を暗に詠んだものです。このように何の恥じらいもなく、間髪を入れず花魁を、いたいけない敦盛少将になぞらえ、情をかけて一同に返礼の歌として詠んだのであります。京の都のお歌所の自信家は勿論のこと、なみいる幕府の役人も、ほとほと威服し、私共の道は宗匠様と比べまだまだ遠いことを思い知らされました。と言って、今迄の数々の無礼を詫び、礼を厚くして帰って貰ったという話です。

さて皆さん、名人とはどんな人を言うのか、この昔噺でご理解頂けたと思いますが、名人の域に達した人は、このように間髪を入れず当意即妙、応変自在、転変流露、臨機応変なること恰(あたか)も障子を開けるや否や、月光が部屋にさすように、いずれが光か、瞬時にして光が投げかけるように、対応すること自然にして、無理なく妙を得ているのであります。

われわれ剣道を修行中の者は名人など気の遠くなるほど深遠な境地でありますが、終生修養を積み重ねて行くところに意義があると思います。そしてまた、名人と雖(いえど)も、これで良いということなく、更に更に奥深く修養を続けておられるのです。一刀流に循環端無しと教えられています。禅の言葉に「歩々是道場」とあるように、人夫々(それぞれ)歩む道は違っても、一歩一歩、道を歩むにも、己れが修養の場と心得、お互いに心を一つにして修行してゆこうではありませんか。この項終り。

〇ひとくちメモ、吉田誠宏先生が仰っていました。
三段どまり、五段どまりということ。三段までいけるがそれ以上の段には上れない。五段まで何とかして上がれるが、その剣道ではもう上には上がれない。(戦前は五段まで、あと精錬証=錬士、以上、教士、範士だけであった)現在もそうで、三段までいけたが四段には結局なれなかった。五段までいけたが、それ以上はむづかしい。今でいう七段まで行けたが八段は到底受からない者等、ズバリひとこと。「わが心に問え」と。※

※「わが心に問え」のひとこと。 よくよく考えて下さい。

ヒント
〇心とは
〇わが肉体=心
〇心は素直な心
〇生れ乍らの綺麗な心
〇本来のわれを見つめよ
〇一刀流では剣身異ならず、心も亦然り。以上

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【編集記】
この記事は、2017年12月27日の記事とほぼ同じ内容を含みます。
長井藩士は、連番のものと、配布用に書いたものと、同じ内容で2種類書かれたと推測します。

名人について(昭和62年12月1日)2/2
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20171227/
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