稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.47(昭和62年1月25日)

2019年03月13日 | 長井長正範士の遺文


腹の中に何もない。腹の破れた世界がある。これが石によく現れている。
石は殴られても、さすられても黙っている。石は全く座禅している。状態を現している。
石はどれだけ見ても飽きない。石の中に天地の声が聞こえる。
無碍自在(むげじざい)、座禅は万物一体に入る。この石の下に集約されている。
石は大自然を現わす。大自然は自分である。自分と自分を見つめる姿。
心のみそか、そして元旦。

以上が西川禅師のことばであったが、自分は剣道人としてこのお話を
剣に置きかえて何遍もなんべんも口で唱えて夜寝る前、床の傍らで座禅をしているが、
もろもろの雑念が次から次えと自分を襲って来て頭が痛くなり
道のまだまだ遠きを知るのである。

因に私は吉田誠宏先生にならって朝起きると寝床の上で約三分軽い運動をし、
終れば小用のあと約十五分座禅をする。それから後、朝げいこに行くのである。
夜は前述の如く約十分の短時間ではあるがずっと座禅を続けて今日に至っているが、
その時の心の持ち方であろうか、夜の十分は或る時は長く然も苦しく、
或る時は短かくすっきりして寝る時等様々で未だ本来の自分に帰ることが出来ない
未熟者であることを皆さんに披瀝する次第である。

然し七十二才の現在、朝晩の座禅(座禅と言えない、ただ座るだけであるが)
で何事もあせらず落着いて来たように思う(剣道もそうである)今年から楽しんで座禅をし、
時間を無理なく伸ばし、目標の三十分座禅に持ってゆきたい。
一刀流の切落の精神と共に生ある限り自分を見つめて行きたい。

○雲弘流について
熊本に負けることなし、勝つことなし、つまり相打ち精神の雲弘流というのがある。
互いに素面素小手で袋竹刀を持ち、互いに三足半、ツツツーと歩みよって
同時に相手を叩くのである。

熊本で井上平太というお爺さんが「昔の衆は、ひどい試合をしておりなはした。
雲弘流の武道家の川並権太先生が某と試合した時の話です。二人は同じ流儀なんです。
この二人が両方からものの見事に相打ちも相打ち、
イヤッという程、頭の打ち合いをやって、そのまま「ウーン」と気絶してしまったんです。
他の人が驚いて水をぶっかけたり、気付薬を飲ましたり活を入れたりしてして
漸やくのこと二~三十分ばかりして生きかえった。
そして二人は顔見合わせ「ご無礼でありました」といって挨拶したという。

以下この項は昭和十一年十一月二十三日、石中先生記“武道と禅”と題し講演された
總持寺後堂兼駒沢大学教授、澤木興道老師のお話を謹んで要約させて頂き記述します。

座禅でも群がる敵中に只一人で踊り込んで戦っている真剣さがなければ座禅も何もならぬ。
私共の座禅は前に敵が居ないから仲々力が出しにくい。
足が痛いやら、退屈やら、睡いやら仲々えらいものです。やってみん事にはわからん。

修業というものは現在というものに力を一杯入れること。
そうすれば未来というものは一服がない。一服したら死んだと同じことです。
現在は現在の生命を掴んでおらねばならぬ。
若い者は「糞ッ!今に見ておれそのうちに成功してやるぞ」という・
こんなことを言って一生暮らしてしまう。未来にねじりつけて現在を空虚にして了う。
今日を空虚にして(続く)
コメント
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