田園都市の風景から

筑後地方を中心とした情報や、昭和時代の生活の記憶、その時々に思うことなどを綴っていきます。

33年前の中国訪問記(1)

2023年12月28日 | 遠い日の記憶

 2階の片隅に、長らく使っていない物置のような勉強部屋がある。そこにある仕事関係の書籍やノート類を整理したいと思っている。その中に昔、中国を旅行した時のものがあった。33年前のことである。1990年の10月、市の友好訪問団の一員として中国を旅行した。当時はなぜ若輩の私がと思ったが、帰国後に研修所から報告を出せと催促されて理由が分かった。職員研修の一環だったのである。だが、いまさら言われても困ると、うやむやの内に済ませてしまった。

 あれからずいぶん月日がたったが、資料を処分する前に旅日記として投稿し、遅ればせながらの研修報告にしようと思う。あの時は研修という自覚がなく記念写真ばかり撮っていた。記録として紹介できる写真は少ししかない。

 訪問先は安徽省の省都、合肥市。当時の人口は約600万人。久留米市の友好都市である。上海を経由し、空路で合肥へ。帰途はマイクロバスで田舎道をひたすら杭州まで走り、そこから鉄道で上海に戻る。1週間の中国の旅であった。

                              (googleマップより)

 出発前に貰った安徽省発行の合肥市の紹介冊子。日本語版である。そこには面積50㎢、人口82万人と書いてあった。合肥市の中心行政区だけなのか、中国の地方自治制度がもう一つよくわからない。

 10月4日。夕方のMU914便(中国東方航空)で福岡をたった。出国手続きの際、出国審査官は一段高いブースに陣取っていて、帽子を被っていたら「帽子!」と一言、叱責された。役目柄とはいえ居丈高である。初めての外国旅行で、こちらも勝手がわからない。

 夜の帳が下りるころ、現地時間の19時に上海虹橋空港に着く。現在の浦東国際空港はまだ建設されていなかった。上海の玄関口はいまとは違って観光客も少なく、空港施設は野暮ったくて薄暗い。ここでも入国審査官の目付きは厳しかった。写真の搭乗券半券には虹橋空港のスタンプを押した紙片が留められている。着陸料の領収みたいなものだろうか。

 空港では合肥市の外事弁公室課長と通訳が出迎えてくれた。この二人が全行程に同行した。ほかに上海市の通訳も来ていた。後日もこういう形の自治体間の連絡調整があった。日本とは事情が違うようだ。

 空港からマイクロバスで市街地へ向かう。30分もかかっただろうか、途中の道筋は暗くアセチレンガスを灯した屋台が目に入る。子どもの頃の縁日を思い出した。ホテルは中心部に近い南京西路の「国際飯店」。

 事務局が合肥市側とスケジュールを打ち合わせている間に、我々は近くを散歩することにした。通訳からは、くれぐれも用心するようにと釘を刺された。上海の街は大通りを一歩横丁に入ると辺りは暗く、裸電球の屋台が並んでいる。言葉が分からないので冷やかしもしなかったが、夜中に背広姿でぞろぞろと歩く様子は目立っただろう。一巡して、早々にホテルに引き揚げた。

 旅の記録をメモしていた手帳は探しても見つからない。幸い事務局が作成した報告書があったので、私の記憶を交えて旅の様子を紹介したい。

 

 

 

 

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