しとしと降る雨は風情があって決して嫌いではないのですが、このところの荒々しい長雨にはいささか気が滅入っています。例年だと梅雨明けはもう少し先のようです。
昨年のいまごろ、佐賀県神埼市千代田町の「直鳥クリーク公園」を訪れました。ここは16世紀初頭に築かれた直鳥城跡です。城といっても戦国時代にこの辺りによくあった平城で、城屋敷を中心に環濠集落を形成していました。
クリークは潮の満ち引きを利用した農業用水路で、筑後川下流の田園地帯に網の目のように張りめぐらされていました。ここは城があっただけに水路幅も広く、環濠集落の規模は3百メートル四方に及んでいます。
少年時代、私は街なかに住んでいましたが、少し遠出して農村部に来るとこうした風景が見られました。
水路の中を民家に行く道があります。
中学生の頃、農家が藁葺き(或いは茅葺?)屋根にトタンを被せることが流行ったような記憶があります。この家もそうでしょうか。
いまはクリークは統廃合され、取水方法も変わって護岸はコンクリートブロックになりました。しかし、ここには昔の掘割の面影が残されています。灌木が生い茂るクリークで、先生や友達と鮒釣りに興じた夏休みが私の少年時代の原風景です。
近くに養蜂家があるのか、蜜蜂の巣箱が積んでありました。
草いきれのする小道を歩くと集落がありました。たしか昔ここに来たことがあるような、デジャヴを覚えます。町の密集住宅地に住んでいた私にとって、田舎は別世界でした。
(当時は知りませんでしたが、2年前に投稿した同じ神埼市内の横武クリーク公園も環濠を利用した平城跡だそうです)
9月には「クリークの里石丸山公園」に行きました。同じ筑後川流域ですが、こちらは福岡県大木町です。ちなみに筑後平野と佐賀平野を合わせて筑紫平野といいます。白い建物は資料館です。
統廃合されたもののクリークはあちこちで見られ、場所によっては昔の環濠集落のような所もあります。
公園の一角では菱が栽培されていました。
菱は秋の味覚で、栗に似た淡い味がします。(写真は大木町のホームページより借用)
資料館に菱の収穫に使ったはんぎりが展示されていました。はんぎりは元々は桶を半分に切ったもので、女性がこれに乗ってクリークの菱を収穫する写真を見たことがあります。子どもの頃、近郊の農家から菱を売りに来たりしていました。
右にあるベルトコンベアは泥土揚げ機です。堀の底にたまった泥土を田畑に揚げる機械です。クリークの容量を確保するとともに、栄養分がある泥を田畑にまいて収穫量を増やします。いまは泥揚げは行われなくなりました。
彼岸花が咲いていました。筑後地方の人にとってクリークは身近な存在です。
クリークの記憶は泥土の匂いです。内陸の田園地帯での暮らしは人々に閉鎖的な気質をもたらしますが、一方では北原白秋に見られるような豊かな詩情を育みました。
私は安逸な平野部での生活に自足するとともに、ときおり無性に海が見たくなって車を走らせます。まだ現役のころ同僚から、もし自由にお金が使えるのだったら何がしたいと聞かれたとき、この町に水族館を作りたいと答えたものです。
九州各地の大雨被害に驚いています。
一時期久留米市もかなりの人数の避難指示や勧告がでて、心配しましたが、ご無事のようですね。
この長雨いつまで続くのででしょう。京都は今朝も大雨警報がだされました。
私が住む地域は微高地なので、水の心配はあまりありません。
このところ、毎年のように市内が冠水するようになりました。
中小河川の水門が閉ざされ、排水ポンプも処理しきれず水が溢れるのです。
「数十年に一度」という言葉を毎年目にします。
いいところのご紹介、ありがとうございます
水族館の発想は九州様らしいですね!
神埼はそうめんつくりだけ見学に参りました
吉野ヶ里に行くようになってから、
この辺りを時々走るようになりました。
素麺の製造工程はテレビで見たことがあるだけです。
神埼もいろいろ見る所があるようです。
クリークも九州さまのブログで知りました。先人の方の知恵と工夫の遺産ですね。
京都も亀岡とか昔からの普通ののんびりした田園地帯が残っています。
父も学校を卒業してから
安城農林学校→長崎農林学校(諫早)、終戦、→須知高校(新制)と教鞭をとりましたが、農業が得意というわけではありません。
家族で畑の草取りをすると父は一本々を丁寧にとるのですが、暑くなると貧血をおこしたりしました。(^^;
ありがとうごさいます。
私は街なかに住んでいたので、農村部のことはよく知りません。
でも小学校の先生が兼業農家だったので、
田植えと稲刈りの体験をしたことがあります。
帽子を被らずにクリークで鮒釣りをしていて、日射病で倒れたことも懐かしい思い出です。